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映画が導く言語学 3            「メッセージ」(Arrival)

映画にはふつう主人公がいる。スパイ、悪人、怪人、歴史上の英雄など特別な人もいればふつうの人のこともある。時には学者が主人公になることもある。例えば、「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(The Imitation Game、2014年公開のアメリカ映画)のイギリスの数学者アラン・チューリング。「奇蹟がくれた数式」(The Man Who Knew Infinity”、2016年公開のイギリス映画)のインド人の数学者・シュリニヴァーサ・ラマヌジャン。「博士と彼女のセオリー」(The Theory of Everything, 2014年公開のイギリス映画)の車椅子のステイーヴン・ホーキング博士。そして「容疑者Xの献身」(2008年公開、日本映画)のガリレオ先生こと天才物理学者・湯川学と枚挙にいとまがない。

どうも映画で脚光を浴びる学者は数学者か物理学者のようである。数学者や物理学者と比べると、言語学者はあまり映画の主人公にならない。むろん言語学者が映画に登場しないわけではない。もっとも有名なのは「マイ・フェア・レデイ」(My Fair Lady、1964年制作のアメリカ映画)のヒギンズ教授だろうか。しかしこの教授は主人公ではないし活躍するわけでもない。「天才数学者」や「天才物理学者」という言葉はよく耳にするが「天才言語学者」はあまり聞かない。少なくとも映画の世界では言語学者は地味であり数学者や物理学者のような華やかさがない。

「メッセージ」(原題は“Arrival”、2016年公開のアメリカのSF映画)は、言語学者が主人公として活躍する珍しい映画である。この物語では世界各地にーなぜか私が住む北海道を含めー謎の宇宙船が現れる。アメリカの軍関係者が調査に乗り出し、若き優秀な言語学者ルイーズ・バンクスにエイリアンの言語「ヘプタポッド」を解読し、彼らの飛来の目的をつきとめるよう依頼する。ルイーズはこの任務を引き受けヘプタポッドの解読を進めるが、その解読を進めるにつれ奇妙な夢を見始める。夢の中ではルイーズは娘を持つ母であり、やがて成長した娘の死に直面する。しかし現実にはルイーズは独身で子供を産んだこともない。

この物語の重要なモチーフになっているのが「サピア・ウオーフ仮説 」という言語学の仮説である。これは「人の思考や認識は自分の使う言語から何らかの影響を受ける」という仮説である。ヘプタポッドは文法が視覚的であり時間を超越した独自の思考法をもつ。そしてこの特異な言語を獲得する人は予知能力を獲得する。ルイーズが見る奇妙な夢は、実は未来の自分の辛い体験の「思い出」なのである。

人の思考やものの見方が使う言語に影響を受けるか否か、もし受けるとしたらどのような影響なのか、は興味の尽きない問題である。サピア・ウオーフ仮説は「言語相対論」とも呼ばれ、これには強い仮説と弱い仮説がある(『明解言語学辞典』三省堂)。強い仮説は「人は母語によって思考・認識が決定される」と主張するが、これは現代の言語学では否定されている。「人の思考や認識は自分の使う言語から何らかの影響を受ける」は弱い仮説であり、こちらは検討に値すると考える言語学者がいる。

「昨晩はお隣さんと一緒だった」という日本語を考えよう。フランス語やドイツ語では「お隣さん」が男性か女性かを明らかにすることを強いられる。フランス語ではお隣さんが男性ならvoisinであり女性ならvoisineである。ドイツ語ならそれぞれNachbarとNachbarinとなる。性別を明記せずに「お隣さん」と言えない。「お隣さん」を表す英語のneighborは日本語と同じく性別がない。このためI spent yesterday evening with a neighborという英語ではお隣さんが男性か女性かわからない。つまり日本語や英語の話し手は「お隣さん」を語る時に性別を意識しなくてよいが、フランス語やドイツ語では性別を意識せざるをえない。

英語が日本語と違うのは数についての意識である。例えば、英語で「昨晩はお隣さんと一緒だった」と言うには、お隣さんが一人か複数かを示さないといけない。つまりI spent yesterday evening with a neighborか I spent yesterday evening with neighborsかである。しかし日本語では「昨晩はお隣さんと一緒だった」と言っても「お隣さんは1人ですか、複数ですか」とつっこまれることはまずない。もちろん「昨晩は一人のお隣さんと一緒だった」とか「昨晩はお隣さんたちと一緒だった」と言うのは自由だが、くどくなるか不自然に意味深になる。日本語では名詞の数への意識が弱い。

私たちの物事の見方が使用する言語によって完全に決定されるわけではないが、一定の影響を受けることはありそうである。世界にはおよそ七千の言語があり、中にはまったく調査されていない未知の言語もある。しかしヘプタポッドのように習得すると予知能力を獲得する言語はありそうもない。

<まとめ>

・「メッセージ」(Arrival)という映画は言語学者が主人公として活躍

する珍しい映画である。

・この映画では「サピア・ウオーフ仮説」と呼ばれる言語学の仮説が

重要なテーマのひとつになっている。

・「サピア・ウオーフ仮説」(の弱い仮説)では、私たちの物事の見方

は使用する言語から一定の影響を受けると考える。


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