【救われぬ物語】FF7 REBIRTH のストーリーは何故評価されづらいのか
ご無沙汰しております。久々の更新です。
さて今回取り上げたいのはPS1版「Final Fantasy7」です。
ややこしいですが、「Final Fantasy7 REBIRTH」のストーリーの評価を受け、
原作版「Final Fantasy7」のお話をさせていただきたいと思います。
あくまで取り扱うのは、PS1で発売されたFF7です。
はじめに、表題の「Final Fantasy7 REBIRTH」ですが、売り上げ本数は今年4月の時点で国内30万本、
全世界200万本となかなかの成績のようです。
前作REMAKEのおよそ半分とのことで、決して好調とは言えませんが、
三部作の二作目という立ち位置やPS5のみでの販売だったことを考慮すると、まずまずの結果と言えます。
僕も以前の投稿で指摘した「少々誤解されている」戦闘システムについても、
ブラッシュアップが図られたようで評判も良いようです。(相変わらずREMAKE と同じ批判をする方はいらっしゃいますが)
メタスコアも「93」と高得点で、作品として非常に高い評価を得たと言って間違いないでしょう。
このまま今年のGOTYをとるんじゃないかという話もあり、
昨今の同シリーズの「凋落」を危惧するものとしては喜ばしい状況です。
ところが本作、どうやらストーリーの部分で少なくない批判を受けているようです。
特に厳しい指摘を受けているのはエンディング部分で、
本作を楽しんだという方でも「あの終わり方はないよね」という感想の方が少なくないように見受けられました。
ゲーム部分は高く評価されている一方で、ストーリーが不況だってためにケチがついているという状況。
どうしてこういうことになってしまったのでしょうか。
僕はPS5を所持しておらず、今作はSteam版の発売を待っている段階ですので、
あくまで原作であるPS版「Final Fantasy7」の範囲でお話します。
「ん?REBIRTHやってないのにストーリーのことわかるの?」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、「REBIRTHのエンディングが受け入れられない」理由は、
実は原作の頃から既に(潜在的に)存在しているものでした。
結論からいうと、その理由とは「FF7のキャラクター人気」にあります。
(人気キャラクターのエアリスが死んだから、ではありません)
その理由を語るには、「FF7がどうして人気だったのか」という点を分析する必要があります。
ということで、今回はREMAKEシリーズの「原作」たるPS1版「Finalfantasy7」の話をしていきたいと思います。
REBIRTHのネタバレは全くありませんのでご安心を。
ただ、僕は「脚本論」や「ストーリー論」を語るつもりはありません。
素人がそのようなものを語ったところで、説得力はありません。うさん臭くなるだけですね。
ですので、あくまで受け手ごと、プレイヤーごとの受け止め方の違いを中心に論じていきたいと思います。
(もちろんこれも、幾つもある素人の意見の一つでしかありません)
とはいえ、気づくと二万字ちかい長文になってしまいました。
非常に長いですが、どうか最後までお付き合いいただけますと幸いです。
■そもそもFF7ってどう評価されてるの?
「REBIRTH」では不満も出たようですが、「Final Fantasy」シリーズはある程度ストーリーを期待されているシリーズであり、
なかでも「7」はおおむね高く評価されている作品です。
同作の特徴を訊ねて「感動的なストーリー」と答える方は少なくないでしょう。
「感動的」とは主観的な言葉ですが、多くの方が心を動かされたと認識していることは間違いないようです。
しかし一方で「キャラが全員イケメン、チャラ男」だの、「イケメンが空を見上げて意味深なことを言うだけのゲーム」だのと
揶揄する方も一定以上いらっしゃいます。
同シリーズについての感想や評価を見ていくと、必ずこの「温度差」にぶつかります。
「好きな方」と「そうでない方」で、熱量に大きな違いがあるんですね。
さらに特徴的なのが、「そうでない方」は必ずしもアンチではない、という点です。
どれほどすぐれた作品にも必ずアンチ、つまり対象作品を非常に低く評価する方はいるものです。
ファンとアンチが作品を挟んで対立しあう。これはどの作品でもよく見る姿です。
が、同シリーズの場合、評価の乖離はシリーズファンとそれ以外の方の間で発生しており、
必ずしも揶揄しているのはアンチとは限りません。
どころか過去にはシリーズファンだった方が「最近のFFはホストみたいなキャラばっかじゃん」と揶揄う姿すら見受けられます。
つまり、
「熱狂的なファンの深い愛に支えられている一方で、一般的な評価としては若干『イジリ』の対象となっているシリーズ」
と言えます。
そもそも、同シリーズを「7」以前と以降とで分ける見方もあり、シリーズ内でも温度差が存在しています。
ここでもキーとなるのは「7」です。
さて、同作はどうしてこれほどファンの方とそれ以外で温度差があるのでしょうか。
その鍵となるのが、「キャラクター」です。
■非常に高いキャラクター人気
ここで改めて説明するのもおこがましいほど、「Final Fantasy7」のキャラクターは非常に人気です。
国内だけにとどまらず、海外でも高い人気を博しています(むしろ海外の方がファナティックなファンが多いくらい)。
日本を代表する有名RPGシリーズの中でも、これほど人気な作品は他になく、
「バスターソードを担いで神羅ビルを見上げるクラウド」は、同シリーズのアイコンとすら言えます。
そのクラウドにとって宿命的な存在の「セフィロス」。これも有名です。
普段ゲームをやらない方や、FF7をプレイしたことがない方でも「クラウド」と「セフィロス」はご存じでしょう。
余談ですが、以前「Creepy Nutsのオールナイトニッポン」で、ぼさぼさに髪を伸ばしたリスナーが、
自分のことをセフィロスみたいだと言っているメールを読み、「Creepy Nuts」の二人が笑い転げた回がありました。
世代的にもカルチャー的にもFF7のメイン層とは大きく距離のある彼らでも、
セフィロスは名前を聞いてすぐに思い浮かべられる存在なんですね。これは本当に驚くべきことです。
他にも、ヒロイン的立場の「エアリス」と「ティファ」も有名、かつ人気の高いキャラクターです。
特にエアリスに関しては、彼女の死が不評の鍵となっているわけですから、
どれだけ愛されているキャラか今更語る必要もないでしょう。
ティファについては、「世界中で一番エロイラストを作成されたキャラクター」という冠すら持っています。
これは決して不名誉なものではありません。
冷静に考えてみて、発売から四半世紀以上も経っているというのに旺盛にファンアートが作られており、
またその需要も高水準を保ち続けているというのは、信じられないレベルの人気といえます。
現在の人気キャラ(ヨル・フォージャーや喜多川海夢、兎田ぺこらなど)が
果たして25年後に世界中でファンアートを作られているか?と考えるとお分かりいただけるでしょう。
(もちろん僕は作られていてほしいと思っていますが)
少々横道にそれましたが、FF7は疑うべくもなく人気キャラクターを擁するビッグコンテンツに違いありません。
しかしこの「高すぎるキャラクター人気」が、実は前述の「揶揄」を呼び込んでいるきらいがあるんですね。
というのも、FF7のストーリーは、要所要所でキャラクターへの愛情が求められる部分が多いため、
ファンとそれ以外の方、平熱でストーリーを追う方とで印象が大きく乖離してしまうのです。
■乖離し続けるFF7の評価
さて、どのあたりがファンと一般ユーザー層(あえて「平熱勢」とでも呼びましょうか)とで乖離していくのでしょうか。
ゲーム冒頭からそれぞれの方々の受け止め方の違いを順に追っていこうと思います。
原作のOPは、花売りの少女「エアリス」の顔のアップから始まります。
彼女が立ち上がり歩くのは、サイバーパンクライクの近未来都市「ミッドガル」。
そのミッドガルの地下を通る高速鉄道。車上に潜み眼前の闇を睨む主人公「クラウド」。
鉄道が止まった先は巨大企業神羅カンパニーが運用している魔晄炉施設。
鉄道から飛び降りるクラウド。侵入者を発見し戦々恐々となる神羅兵を前に背中のバスターソードを引き抜く。
オープニングからクライマックスと言って差支えの無いシーンです。
ストーリーはここから潜入シーンに移行します。
魔晄炉施設内のもぐりこんだクラウドとバレット達アバランチ。
エレベーターに乗り込み魔晄炉に向かう途中で、「星の命が危ない」と自分たちの作戦の目的を演説するバレット。
これに「興味が無いね」とクールに答えるクラウド。
二人のキャラクターの違いがくっきりとわかり、さらに潜入作戦を行っている理由もわかるという重要なシーンです。
ファンならすでにがっちりハートを掴まれています。
まだまだ冒頭、始まったばかりですが、実はここですでに「ファン」と「平熱勢」とで評価に乖離が発生しています。
それぞれの感想を並べて違いを比べてみましょう。
ファン
「このクラウドって主人公、強くてクールでかっこいい!!」
「ふつう主人公なら星の命が危ないなんて言われたらのっちゃうのに、あえてスカすんだー」
「クールなクラウドに熱血なバレット、ぴったりのコンビじゃん」
平熱勢
「この主人公は何でこんなスカしてんだろ、理由あるのかな」
「興味がないくせになんでこんなテロみたいなことに首突っ込んでんの、なんでだろ」
「え?星の命を救うためにエネルギー施設爆破すんの?環境テロだろ、なんだこいつら」
お判りでしょうか。
キャラクターにハートを鷲掴みにされた方々は、冒頭の時点で既にキャラクターの言動を好意的に受け止めているのに対し、
平熱勢は「この人はどうしてこんなことをしているの?」という疑問の方が先に立つんです。
ファンに過剰に熱を持たない方は、まずストーリーを追いたいわけです。
「このキャラクターはいったいどういう理由で動いているのか」を知りたいわけです。
ところがクラウドは斜に構えたセリフしか発しませんし、バレットが語る目的はちょっと過激すぎるというか、
ゲーム冒頭でいきなり感情移入できないような内容を訴えてるんですね。
平熱プレイヤーとしては、クラウドかバレットどちらかの視点に寄り添ってみようと思っても、
どちらも「ちょっとアレ」な言動なのでいまいち入り込めない、と。
これ何が原因なのかというと、一見ぴったりのコンビに見えるクラウドとバレットが、
実はあまり機能していないせいだったりします。
特に問題あるのがバレットです。
まず、クラウドは「旧来のRPGの主人公」=「勇者」の逆を行くアンチテーゼ的存在です。
「世界=星を救うという条件にも興味を示さない」というのは非常に象徴的でしょう。このキャラクター性に問題はありません。
これに対しバレットは世界観に引き込む側であり、
アンチテーゼとして存在するクラウドをRPG的展開へと牽引するべきキャラクターなのですが、これが全く機能していない。
本来はクラウドが「勇者」から外れた「変」なことを言うたびに、訂正しつつ世界観を説明するべき側です。
そのバレットがいきなり「星の命が危ういみたいだからエネルギー施設を爆破するぜ!」などと言いだすわけです。
クラウドの「変」なところを際立たせるべき立ち位置のバレットが、クラウドよりも「変」なことを言ってしまうわけです。
漫才に例えるなら、クラウドが「RPGの勇者なら言いそうにないことをあえて言う」という「ボケ」を繰り出すたびに、
バレットが「本来の勇者ならこうだろ」「この世界ならこうだぞ」と「ツッコミ」を入れることで成立するはずが、
全くツッコミを入れずに過激派環境テロリストみたいなことを叫んでいる。「ボケ」のクラウドより大きい「ボケ」をかましてるんですね。
漫才なら「なんでやねん言うとるお前が一番なんでやねん」の状態なわけです。これは機能しないのも当然です。
キャラクター同士がしっかり機能して冒頭が進んでいく例は、同シリーズ中にあります。
FF10の「ティーダ」と「ワッカ」です。
ティーダは現代よりも発展したザナルカンドの人間ですが、突如現れた「シン」に襲われスピラという異世界に迷い込みます。
そこで出会ったワッカはティーダのことを「変なやつだ」と思いながらも、スピラの常識を教えてくれます。
「現地民ではない異邦人」を「現地に住む親切な人間」がガイドすることで、
プレイヤーもティーダと同じ速度でゲーム世界に没入していくことができるんですね。
本来バレットはワッカと同じ立ち位置であり、ゲーム世界の異邦人であるプレイヤーをガイドする立場なのですが、
これが全くと言っていいほど機能していないわけです。
とはいえファン側にしてみれば好きなキャラクター同士の会話なわけで、
「クラウドもバレットもキャラクターが立っていて面白い」と受け止められるわけです。
アバランチの面々も、ファンにしてみると「勇ましさとかわいさを持った面白いキャラ」と映りますが、
平熱勢は「ピクニック気分でテロ行為に及ぶやばい連中」と判断するわけです。
極めつけは、魔晄炉破壊後に7番スラムへ戻ってきてクラウドが再開するヒロイン「ティファ」。
「大丈夫だった?」「バレットと喧嘩しなかった?」「ごめんね無理に誘っちゃって」
と、クラウドのことを心配するティファ。クラウドの幼馴染でどうやらお互い異性として意識しあっている雰囲気。
そのうえ二人は故郷のニブルヘイムにいた頃、「ピンチになったらヒーローみたいに助けに来てね」と夜空を見上げて約束した仲。
そうか、この子を守るためにクラウドは潜入作戦を引き受けたのか。
これにはファンのハートは鷲掴みされます。はい最高。もう完璧。ゲーム史上最大のベストカップル。
「E3 2015」のFF7RPV発表でも、このティファとの再会シーンが映った途端、会場が歓声で包まれました。
しかし平熱勢の場合、まず幼馴染という「クラウドの過去」=「行動原理」を知るキャラクターが出てきたことに、
ストーリー基盤が補強されることを期待します。
バレットとの仲を取り持つ姿から過激思想のバレットに対して真っ当な意見を言う立場のキャラか、という推測も立ちます。
ところがここで判明するのは、クラウドがテロに参加した理由は「かわいい幼馴染」に頼まれたから、
という多分に雰囲気に飲まれたものであり(一応金を要求するもあまりストーリー的な機能は非常に弱い)、
ティファも「お願い、星が危ないの」とバレットと同じ環境テロ的特殊思想を語り始めます。
なるほど「エネルギー施設爆破」なんて行為の「代償」や「覚悟」とかはこのゲームでは語られないのね、
「どれだけ正義を語ったところでテロは不法行為だが、その罪も背負うつもりであえて行動を起こす」
みたいな角度で物語が進行することはこの先もなさそうだね。
こう判断されます。
もちろん、「冒頭から濃厚な使命感をキャラクターに持たせてなければストーリーとして問題がある」とは言いません。
しかし、近未来世界観で危険なテロ行為におよぶ主人公たちには、
それなりに骨太なストーリーを持たせる必要があるというのも、十分お分かりいただけることでしょう。
キャラクターに熱を持たずにストーリーだけを楽しもうとすると、疑問符が頻出する展開ではあるのです、同作は。
ここまで語った内容は原作なら一時間程度でたどり着ける範囲です。それでもこれだけの反応の「乖離」が発生するわけです。
しかもこれはアンチではなく平熱勢、いわば「平均的な一般人」視点での話です。
もうお分かりいただけたと思いますが、「FF7」とは「物語に入り込むのにキャラクターに対する深い愛が必要」なストーリーなのです。
「ストーリー」や「世界観」よりもはるかに高い位置に「キャラクター愛」が存在しているのです。
現代風にいうところの「推し」が必要となるわけです。
評価に乖離が発生するのは仕方がないと言えば仕方がないのです。
「推し」が前提となっているストーリーなわけですから。
■ではなぜ「FF7」は満足度が高いのか
ここまでかなり同作を「悪く」言ってきましたが、それでもやはりプレイした殆どの方がFF7を「名作」と判断したはずです。
でなければリメイク発表だけで盛り上がるほどファンを獲得できるはずもありません。
前述の「平熱勢」でも満足できるだけのエンタメ性を持っている作品であることには疑いありません。
ではどこがエンタメ性を担保していたかというと、「興奮するシーンの連続」です。
もともとFFシリーズは、ユーザーの興味を引くシーンの連続で構成されています。
前作FF6のストーリー展開を見てみましょう。
「悪の帝国に支配された少女ティナが突然正気を取り戻す」
「突如現れ、モーグリたちと追っ手を撃退するロック」
「町から脱出して逃げ込んだ砂漠の城、出迎える気障で美形の王様エドガーが迎える」
「突如城を囲む悪役ケフカ、これを華麗に打ち破るロックたち」
と、まあそれ単体で成立するくらいエンタメが旺盛に盛り込まれたシーンが連続するんですね。
これがゲームクリアまで途切れることが無い。そりゃあ面白いわけです。
FF7にしても当然同じように構成されています。
先ほどは揶揄するところが多かった魔晄炉爆破に関しても、冒頭から緊張感があるシーンの連続です。
「タイムリミットが設定された脱出イベントを抜けるも、仲間との合流を阻まれ街中を駆け抜けるクラウド」
「その途中、OPで映った美少女と出会う」
「敵に囲まれ絶体絶命と思ったところで、高速鉄道に飛び移り難を逃れる」
この展開を追っているだけで楽しいわけです。満足度が高くないわけがない。
「ストーリーに難はあるが展開自体は面白い」という状態はまだまだ続きます。
「歓楽街に潜入し、魔晄炉爆破の報復で7番街を丸ごと押しつぶす計画を知ったクラウドたち」
「それを阻止しようとするも失敗、自分たちの命も危うくなるが、ぎりぎりのところをワイヤーで颯爽と切り抜ける」
どれも興奮する展開の連続ですね。
ただ、展開だけを切り出すととても面白いのですが、7番街が破壊されて悲しんでるけどまさか報復を想定してなかったのかとか、
ピクニック気分でテロやった仲間が死んでもちょっとあんまりぴんと来なくないかとか、
平熱でとらえると疑問に感じる部分は端々にあります。
とはいえ作品全体の総量で数えると、やはり十分満足という評価になります。それだけの力がゲーム側にあるためです。
「FF7」の戦闘・育成システムはシリーズの中でも非常に評価が高く、戦闘画面も(現在では見劣りするかもしれませんが)大迫力。
ゲームを進めているだけで楽しい。
ストーリー展開に少々疑問を持ったり難を感じたところで、プレイする手が止まることはないんです。
小説や漫画の場合、冒頭の展開がつまらないと離脱する読者が多いため、当初からしっかりとした話づくりをする必要がありますが、
ゲームの場合、多少説明不足や冗長なところがあっても、ゲーム体験そのものが面白ければユーザーは続けてくれるわけです。
FF7の場合、このゲーム体験が強固だからストーリーに対して平熱でも続けることができるんですね。
そのうえで映画のような展開が次々と続くのであれば、満足度が高くなるのも頷けます。
また繰り返すようですが、そもそもFF7のキャラクター達には魅力があります。
はじめは平熱で疑問を感じていた人でも、ゲームを続けていくうちにキャラクターに愛着がわいた方もいるでしょう。
正直、冷静に見るとトンデモ展開ですがそれを「可」に持っていく底力を持っているゲームなんですね。
故に「評価は高い」「ファンも多い」「けど冷静になったらちょっといじられる」という評価になるわけです。
■「エアリスの死」が受け入れられなかった本当の理由
では、これまでの話と「FF7 REBIRTH」でのエアリスの扱いを受け入れられないファンが多く出たことは、
いったいどう関係があるのでしょうか。
まず、繰り返しますがFF7は非常にキャラクター人気が高いタイトルです。
他ゲームなら「粗」となる部分すら包み隠してしまうほどの力があります。
これほど人気なキャラクターは、ファンの中で必ず「実在化」します。
実際に存在する「芸能人」のような「人格」として取り扱われるようになるんですね。
キャラクターが好きな人たちは、キャラクター同士の会話を二次創作的に空想します(あるいは実際に二次創作にします)。
そうやって繰り返し空想世界でコミュニケーションが発生したキャラクター人格は、
自然とその人の中で「実在する人間」と同格に扱われるようになります。
深すぎるキャラへの愛が、そのキャラに「実存」を与えてしまうわけです。
普通のタイトルなら月日の経過とともに褪せていく愛情も、FF7の場合はファン同士のクラスタが大きく、
さらにスピンオフタイトルも定期的に作られ続けるため、長い間かけて愛され続けます。
「クラウドとエアリスはきっとこんなやり取りをしただろう」
「エアリスはきっとこの時こんなことを考えていたんだろう」
キャラクターに向けた愛情は、(その人の中で)キャラクター実存の血肉となります。
「愛情」が、架空の存在に魂を与えるわけです。
そうやって深く愛され続け、心の中に「エアリス」が実在する人が多くいると。
そしてそのエアリスとクラウドの恋模様を、自分には足の踏み入れることができない理想の対象としているファンの方も多くいる。
こういう方にとってみれば「エアリスの死」は実在する人間の死に近いわけです(もしくは実際の「死」とほぼ同等)。
それがREMAKEで阻止できる可能性が出てきた。これは欣喜雀躍するのも当然ですね。
死んだ恋人に再開できると知って喜ばない人間はいない。
大げさなようですが、ファンの方の心の中で起きていることは、これと大きく違わないのです。
「たかがゲームのキャラクターが死ぬかどうかの話じゃないか」という認識はシンプルに誤りです。
ファンにとって、エアリスがどう扱われるかは文字通り「死活問題」なんです。
どうして「ビアンカ・フローラ論争」と違って、「エアリス・ティファ論争」が血みどろの殴り合いで、
着地点も見いだせないほど混沌化するかといえば、ファンにとってみれば「実際に存在する恋愛」の話だからです。
実際の三角関係と同じレベルで取り扱われているわけですから、決着などつかなくて当然です。
一方で、人気タイトルですから元々の「FF7」のストーリーを「かけがえのない思い出」として保存している方もいます。
小学生や中学生の頃にプレイし、空から降りてきたセフィロス(実際には違うのだけれど)が正宗でエアリスの胸を貫いた瞬間、
自分も刃で貫かれたように衝撃を受けた子供たちも少なからずいたことでしょう。
特に終盤の展開。
「何の役にも立たないの」とエアリスが語っていた母の形見のマテリアは、実は星を救う唯一の鍵、ホーリーだった。
セフィロスとの決戦を前にして、彼女が命を賭してホーリーを発動していたことを知るクラウドたち。
流れ始めるエアリスのテーマ。死に分かれたはずの彼女はずっと傍に居た。
この展開に胸を震わせた当時の子供たちも多くいたことでしょう。
そういう方々にしてみれば「かけがえのない思い出」なわけで、物語の変化など全く望んでいないのです。
ある意味「思い出の中でじっとしててくれ」に近いわけです。
簡単に変えられてしまうなんて自分が好きだった作品を軽んじられている気がする。こう受け止めるのも仕方のないことです。
作品に対する愛が深いがゆえに、互いに正反対の立場に立ってしまうんですね。
これを両立させられる新たな物語など、存在するはずもないんです。
ユーザーの中の多くの方は、物語ではなくキャラクターを愛しているわけです。
望んでいるものは物語の展開ではなく、「死」が否定される、あるいは正常に履行されることのみ。
そしてさらにややこしいのは、当時から「平熱」で受け止めていたユーザーです。
そういう方の中にも「リメイクされるならちょっとやってみようかな」という方も結構な数いたはずです。
「平熱勢」からしてみれば、ファンの方々が「REBIRTH」の結末に非常に高い注目を寄せている姿は、
「なんで実在しないキャラクターの扱いにこんなに熱くなってるんだ……」と、不気味に見えることでしょう。
そもそも、クラウドとエアリスが好きで二人の恋模様に注目していた方でない限り、
突然現れたセフィロス(繰り返しますが本人ではないです)にエアリスが殺される展開はあまりに唐突過ぎて、
「何か衝撃的なことが起きているのは確かなんだが、悲しむにはあまりにも材料が足りない」という感想になります。
エアリスが強烈に好きでもない限り(あるいは、エアリスと自分をほぼ同一視してクラウドとの関係を楽しんでいない限り)、
脈絡が無さ過ぎてどう捉えてよいか困惑する展開なんですね。
実際、当時学生だった私の周りでは、衝撃を受けたというより「なんで死ぬの?」と当惑した友人のほうが多かった印象です。
これはあくまで個人的な推測ですが、俗に語られる「エアリス殺しましょう」のデマも、展開に対する不満から生まれたわけではなく、
「よくわからない展開だし、どうせその場の思い付きで導入したんじゃない?ノムリッシュあたりが」
と不特定多数の人がよく似た推測を持ったから生まれたのではないでしょうか。(野村さんにしてみればたまったものじゃないでしょうが)
もちろん、実際に思い付きだったかどうかは私には分かりません。
上記に上げた、
1.エアリス生きてて欲しい勢
2.エアリス死んでて欲しい勢
3.平熱勢
の3種だけでこれだけ全く別方向を向いているわけですから、「REBIRTH」の結末に対する感想が荒れるのは当然です。
荒れないとでも思っていたのか?と問いただしたいレベルです。
そもそも1.と2.はどちらも明確にFF7ファン層でもコアな方々なわけで、ここの評価をスクエニ側が意識しないわけはないのですが、
全く矛盾するファン層を抱えているわけですから、まあちょっと想像するだけでもその苦労が窺い知れます。
じゃあ実際どうすればよかったんでしょうか。どのように作り直せばよかったのでしょうか。
どうすれば不足している「物語力」を得られたのでしょうか。
結論から申し上げると、どうにもなりませんでした。
どうやっても混乱が生まれることは免れられない状況でした。
■「救われぬ物語」FF7
では、同作に不足している「物語力」の正体について検証したいと思います。
とはいえ最初にも申し上げたとおり、僕は「脚本論」や「ストーリー論」を語るつもりはありません。
そもそも何も成し遂げていないくせにSNSなどで他人に教えを授けようなどと考える人に、まともな人格の方はいないでしょう。
そこで既に発売されている評価の高い他作品と比較し、何が足りなかったのかを検証するかたちとします。
サンプルするタイトルは、既に引用した「FF10」と、「Cyberpunk2077」。
「FF10」は、同シリーズの中でもストーリーの評価が高く、7同様に今でも人気が根強いタイトルのため、参考にはもってこいです。
「Cyberpunk2077」は、意外と思われるかもしれませんが、実はストーリー上のいくつかの点で7と符合する部分があります。
・荒廃した近未来都市が舞台
・主人公の頭の中に別の人格が流れ込んでくる
・街を実効支配するのは、強大な権力を持ったテック企業
・そのテック企業への反抗として、施設へ潜入し爆破するという展開
また奇しくも同作の発売は「FF7 REMAKE」が発売された2020年。発売時の時代性から検証する意味でも、実は丁度良かったりします。
この2作を使って検証していきたいと思います。
■行動原理がしっかりしていた「FF10」
ではFF7に不足している「物語力」とは何でしょうか。
まずは既に書いた通り「キャラクターの行動原理」でしょう。
「FF10」はこの行動原理が非常に自然に設定されているゲームでした。
同作の舞台となるスピラは、自然災害レベルの被害を与える「シン」という存在に襲われています。
これを封印できる唯一の方法である「大召喚」を行える唯一の存在が、ヒロインであるユウナ。
主人公たちは、このユウナを守るために大召喚の実行に必要な巡礼の旅についていく、というのが基本のストーリーです。
細かいストーリー説明は置いておくとして、序盤(冒頭1~2時間)で下記が伝えられます。
・スピラを襲う「シン」はティーダが元いた世界で襲われた化け物と全く同じ
・失踪した父親の親友「アーロン」が「シン」のことを知っている
・失踪した父親がスピラにいた形跡があることがわかる
・アーロンは、父親のことも自分が真に襲われスピラに来た理由も、知っているらしい
・そのアーロンに、ユウナの旅に同行しろと言われる
失踪した父の行方、自分の世界を壊した化け物の正体、偶然知り合った少女ユウナに惹かれる心。
ティーダが冒険をする理由としては十分すぎる「理由」がいくつも語られているんですね。
同行する他の登場人物も、同じように説得力のあるストーリー上の理由が設定されているため、
JRPGにありがちな「こいつは何で命を懸けてまで旅についてきてるんだ?」という疑問がわくキャラクターがいません。
そのうえで、「シン」とそれを封印する「大召喚」をしっかり中心に置いて物語が進んでいくため、
クリアまでストーリーに一貫性があるんですね。
キャラクター性でけん引しなくとも、ストーリー側に十分なドラマ性があると。
一方で、前述の通りFF7の冒頭で語られる「理由」は、やや歪というか、受け入れづらいというか、不自然なものが多いです。
下記にクロスレビュー風文体でそれぞれ評価してみます。
・クラウド
幼馴染に頼られてバイト感覚でテロ参加。序盤の終わりでセフィロスが生きていることを知り、ようやく行動原理が動き出す。
セフィロスへの復讐(因縁の終結?)が主に目的で、星の命云々に関しては最後まで客観的な立場。
・バレット
過激派エコテロリストの首魁。「星の命」という漠然としたもののためにエネルギーインフラを破壊しようとする。
戦争で負った傷やダインとの確執など、背負っているものは十分ドラマ性があるのに、なぜか中盤まで語られず。
・エアリス
言動が全般的に幼く行動原理は不明。恋愛脳的発想でふらふらついてきたようにも、実は自分の運命を完全に理解していたようにも見える。「そこがいい」という人もいるが、好きじゃない人にとっては癖の強い珍味。
・ティファ
バレットと同様、過激派エコテロリスト。神羅に復讐心を持つのに十分なエピソードを背負っているはずなのに、なぜかそれを語られるのは中盤に入ってから。クラウドとセットでドラマが用意されているため、本人に言及した話が少ない。
どうでしょう?「FF10」と比べると不自然さが目立つのがよくわかると思います。
それも、上記を読んでもらえればわかる通り、エアリス以外の3人が「なんでそれ中盤まで語らなかったの?」と疑問を持つくらい、
重要な行動原理、背負っている物語が後から飛び出してくるんですね。
もちろん、「Aだと思っていたことがBだった」というどんでん返しはよくある手法ですが、
「B」で語られることが「A」で語っておくべき内容となると、やはり不自然さを感じてしまいます。
FF10の場合、「ユウナが旅に出るのは大召喚を行いシンを封印しスピラを守るため」がAであり、
「大召喚を行うことで彼女は命を落とすことになるがそれは覚悟の上、彼女の父親も同様に命を落とした」がBになります。
この2つは十分に連動していて、シナジーを発揮しているのは読んでもらうだけでもわかると思います。
(FF10のネタバレしてんじゃねえ!というツッコミは、この際許してください。もう二十年以上のタイトルですし)
しかし、「幼馴染に頼られてバイト感覚でテロ参加」から「故郷の村を焼き親を殺したセフィロスが生きてた!見つけ次第即殺す!!」
というA→Bは唐突過ぎる上に食い合わせも悪く、そもそも「フリとオチ」として機能しているようには見えません。
バレットに至っては「星の命が~」などとスピリチュアルなお題目を唱えず、
「神羅に騙されて故郷も妻も親友も奪われた」というエピソードから入った方が、確実にプレイヤーの理解は得られたはずです。
(まあ、序盤クラウドの中二病的存在感を食ってしまうほど重たいストーリーではありますが)
このように、FF7は最初に下敷きとしている物語とその後の展開とがちぐはぐなため、
リメイクに当たって物語に説得力を持たせるために作り替えようとした場合、「A」を変更する必要があります。
つまり、序盤のエピソードを総とっかえする必要があるのです。
言わずもがなそんなことができるはずがありません。
序盤の展開はファンにとって重要なシーンの連続で、同作のアイコンにもなっている部分です。
ここを変更すれば、間違いなく不評を買います。
実際の「FF7 REMAKE」では、アバランチが戦う理由が詳細に語られたり(バレット達は「分派」でもっと過激な「本家」が別にいる)、
「神羅社員だった父が事故で魔晄炉に落ち植物人間になったため女優になる夢を捨ててテロに参加」
というエピソードがジェシーに追加されたりしました。
どちらも内容そのものは面白いのですが、歪な序盤展開自体を変更できない以上、根本的な解決には寄与できていません。
この通り、「行動原理」の補強や作り変えから物語力を向上させるのは難しい(というかほぼ不可能)でした。
■世界観としっかり手をつないだ「Cyberpunk2077」
次に、「世界観」の観点から見ていきましょう。参考とするのは「Cyberpunk2077(以下サイパン)」です。
前述の通り、この2タイトルには共通する項目がいくつもあります。
というのも、FF7の世界観は「サイバーパンク」ジャンルの影響を多分に受けて出来上がった感がありますが、
そもそもサイパンの原作TRPG「サイバーパンク2.0.2.0.」は「サイバーパンク」が始まった80年代中盤にリリースされたものでした。
一般にサイバーパンクというジャンルは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(映画ブレードランナー)」から生まれ、
「ニューロマンサー」で確立されたと言われています。
(諸説あるとお考えの方もいると思いますが、本稿の主題から外れますので、この場はどうかご容赦ください)
この「ニューロマンサー」の影響を多分に受けて作られたのが「サイバーパンク2.0.2.0.」でした。
つまりFF7の「神羅」もサイパンの「ARASAKA」も、近い作品群から影響を受けている部分があるんですね。
念のため申し上げておきますが、「FF7はサイバーパンク作品群の一つだ!」と、荒唐無稽な論を唱えたいわけではありません。
FF7は他にもスチームパンクなどの影響を受けているところもあり、
当時の「かっこいい」をかき集めて一つの世界観にまとめ上げたといった方が正確です。
そもそもサイバースペースも出てこなければクローム(人体改造技術)も出てこないのに、サイバーパンクなわけがありません。
ただ、「悪の巨大企業・神羅」は「ARASAKA」やニューロマンサーの「センス/ネット」などをヒントにイメージされただろうという点は
想像に難くなく、比較対象として「Cyberpunk2077」を選択するのは、それほど無理があるものではないと考えています。
そこで2作を比べてみると見えてくるのが、「世界観による説得力の違い」でした。
まず、ミッドガルには市長が存在するものの、実効支配しているのは神羅です。
経済力を盾に実際の政務機関よりも巨大権力を得た巨大企業なんですね。これはサイパンの「ARASAKA」とも共通する点です。
「資本主義のひずみが生み出した巨大組織により、技術は発達していく一方で人類の倫理観が近世に巻き戻る」というのは、
多くのサイバーパンク作品でみられる世界観かと思います。(議論を避けるため断言はいたしません)
とはいえアーマードコアなどでも採用されていたりするので、昨今ではメジャーなSF世界観ではありますが、まあこの辺は
「そもそもサイパンってベタなSFネタの寄せ集めだよな?」と頭を抱えてしまうような指摘が飛び交いそうですので、やはり触れません。
「サイバーパンク2.0.2.0.」は80年代のサイバーパンク全盛期に生み出されたものであり、
FF7はその影響がまだ少し残っている97年に発売された、という点だけ理解いただけたら十分です。
要約しますと、「ミッドガル」とサイパンの「ナイトシティ」は、その統治機関の権力基盤がよく似ていることから、
ある程度似通った世界観であると捉えられると思います。
つまり、同程度の治安の悪さ(社会の腐敗)であるという推測(イメージ)も成り立ちます。
しかし、二つの作品での世界観描写には大きな違いがあります。それはキャラクターの「世間擦れ」です。
※念のため世間擦れとは:実社会で苦労した結果、世間の裏に通じて悪賢くなること
治安が悪く倫理観が後退した近未来である以上、社会問題も多ければ暴力・犯罪も頻発するのは当然です。
そこに住む人間たちの倫理観も低いものと想像するのが自然でしょう。
実際、サイパンではこの社会の退廃について事細かに描写されています。
街を歩いていればギャングに喧嘩を吹っ掛けられることもありますし、ドラッグにおぼれた若者はいたるところにいますし、
いたるところで暴力事件が発生し、警察が応対している姿が目に入ります。
街頭ニュースでは、「治安維持のため街の下水にはびこる浮浪者を一斉『焼却』」など、
人権など知ったこっちゃないような報道が垂れ流されていたりします。
こういう描写が続くからこそ、「欲望を飲み込んで肥大化する、眠らない街ナイトシティ」に説得力が出るわけです。
主人公たちが夢を見、騙され、破滅していく物語を、真剣に受け止めることができると。
作中で主人公の頭の中に潜むことになる、五十年前に死亡したテロリスト人格「ジョニー」は、
「この街はくそったれだ」「この街をこんなふうにしたARASAKAをぶっ潰す」と息巻いて、
魔晄炉爆破とよく似たARASAKAタワー爆破を実行するのですが、その鬱屈の理由を隠然と語るのがこの世界観です。
それでも少々足らないというか、伝わらなかったユーザーも結構いたらしく、
「ジョニーなんでイライラしてんの」という人もいたくらいで、こういった鬱屈をゲームで表現するのはなかなか難しいところなのでしょう。
一方でFF7はというと、全体的に「ポップ」で人心が荒廃している様子はあまり描かれません。
また、キャラクターは上記のような「世間擦れ」を持っていません。
7番街は明確に「スラム」であり、浮浪者も存在し、隣のウォールマーケットには歓楽街(性風俗的表現も含む)がある環境ですが、
その7番街スラムにバーを構えるティファは、田舎を離れた十五歳のころと変わらない「清純さ」に包まれて登場します。
荒廃した近未来でバーを経営している二十歳の女性なのに、男の匂いが欠片もしない。
どころか十代前半の少女のような可憐さと恥じらいを持っています。
同じくスラムで花売りをやっているエアリスも、二十二歳だというのに十代のような言動で、
偶然出会ったクラウドに対して、ハーレムアニメの女子高生のように思わせぶりな態度をとります。
花売りは娼婦の隠語で、道端で花を売るというのはいわゆる「立ちんぼ」なのですが、
エアリスにそのような淫靡な雰囲気はなく、実際そのようなエピソードは存在しません。
荒廃した近未来に住む人間にしては、二人とも「純潔」さが高すぎるんですね。
FF10のユウナが恥じらいを持った清純な女性であることは問題ないんです。
文明がそれほど発達していない世界で、大召喚を行う大事な巫女として箱入りで育てられたユウナが純潔でも、何も不思議じゃない。
けれどティファとエアリスがいるのはミッドガル。世界の方が擦れている以上、
それがキャラクターに全く表れていないのは不自然というか、「世界と連動していない」んですね。
バレットにしても、サイパンのジョニーのように「この街が腐ってるのは悪辣に利益を追い求め貧民から搾取を続ける神羅がいるからだ」
という方向で憤りをあらわにすればまだ納得がいくのですが、なぜか口から出てくるのはオカルトじみたエコ思想のみ。
「ストーリー」と「キャラクター」と「世界観」がばらばら、ちぐはぐでかみ合っていない状態なんです。
ここでも「キャラクターの魅力」にけん引する形で、ちぐはぐさを補っているように見受けられます。
ではリメイクに当たり、「キャラクター」と「世界観」を連動しようとすると、これはこれで大問題になります。
例えばティファ。「7番街スラムの酸いも甘いもかみわけたバー経営者」というキャラクターにしようとすると、
それこそサイパンに登場した「ローグ」のようなキャラクターになってしまいます。
サイドを刈り上げたよれよれの銀髪で、抜け目ない瞳に険しい眉、口を開けば酒焼けしたハスキーボイスで皮肉を飛ばし、
使う言葉もシンプルなうえ的確で、判断には狡猾さが見え隠れする女。弱さなど当然欠片もない。
エアリスなら、エブリンでしょうか。
ミステリアスで謎めいた言葉の裏には、現実的で自分の体を資本にして目的を達しようとする強かさがある女性。
下品さと紙一重のところにある、男好きするセクシーな容姿。
誰がこんなFF7をプレイするんでしょうか。
ローグみたいなティファだと、声をかけられてもクラウドは魔晄中毒から復帰できないでしょうし、
エブリンみたいなエアリスは、ゲーム開始時点でルーファウスの愛人にでもなってそうで幻滅します。
骨太な物語にするには、同じく骨太な世界観としっかりキャラクターを連動する必要があるのですが、
そんなことをすれば、可憐な魅力を持ったキャラクター達のイメージが吹き飛んでしまうわけです。
このため、いざリメイクだからと言って、FF10やサイパンのように
「ストーリー」+「キャラクター」+「世界観」と、三つを連動させて動かすことができないんです。
やらなかったのではなく、できないんです。やったら終わり。
キャラクター人気も霧のようにかき消えてしまいます。
「ストーリー」をいじるために冒頭を調整しようとしても、「世界観」に連動させるためにハードな演出を盛り込もうとしても、
独立して高い人気を得ている「キャラクター」の存在の前に、手出しができなくなるわけです。
そのうえで、REBIRTHで確実に待っているのは「エアリスの死」。もちろんこれも書き換えるわけにはいかない。
八方ふさがりなんです。調整したくとも不可変な部分が多すぎて、変えることができない。
大半が「固定値」で出来上がってるわけです。
故に、
「何年後かにリメイクされるとしても、ストーリーは全く変わることはない」
「キャラクター人気は高いから、エアリスを殺すなという話がユーザーから必ず出てくる」
「同時に、ストーリーを変えるなというユーザーも多く出てくる」
「だから必ず忘らるる都到達付近でユーザー評価が荒れることになる」
という推測が、四半世紀以上前の時点で成立するわけです。
■じゃあ、「FF7」ってストーリーはつまらないゲームだったってコト?
ここまで私が長文で論じてきたことをいったん下記にまとめます。
「キャラクターは非常に魅力的」
「世界観は謎めいていて引き込まれる」
「展開はどれも映画みたいで興奮を誘う」
「しかしストーリー構成は粗雑で随所に難がある」
「キャラと世界観が連動していないため、ドラマに対する説得力がキャラ人気頼り」
と、これだけ読むと「脚本はクソだがそれ以外の要素が優秀だから成立した」
という評価になりそうですが、
決してそんなことはありません。
というか、一番重要な「キャラクター人気」を最も担保する要素が、実はストーリー側に存在します。
それが「クラウドの過去」です。
繰り返して言いますが、FF7のキャラクターは非常に人気です。その中でもとりわけクラウドの人気が高い。
続編であるFF8の主人公「スコール」と比べても圧倒的な差があります。
売り上げ本数では、FF7が約「400万本」に対しFF8は「370万本」(国内)。
大きく差はありませんが、クラウドとスコールの人気には大きな開きがある印象です。
(手元に明確な数字があるわけではないので、あくまで印象というところで許してください)
なぜこのようになるのでしょうか。
というのもFF7のストーリーは大きく分けて2軸でできているからです。
①魔晄を吸い上げる神羅を撃破し、星に寄生するジェノバを滅ぼし、星の命を救う物語
②英雄にあこがれ、夢に破れた少年クラウドが自分を取り戻す物語
ストーリーの大半は①でできています。神羅との戦いの大半は①の要素です。
ここに②の要素が挟み込まれる構成になっています。
12歳の少年クラウドは、ソルジャーとなることを夢見て田舎を旅立ちました。
しかし神羅内では全く能力を評価されず、3年後に任務で故郷を訪れた際はただの一般兵士でした。
ティファに顔向けできず、自分がクラウドであることを隠し続ける状態。
自分は幼馴染と約束したような輝かしい何かには成れなかった。自分は持たざるものだった。
このルサンチマンは、おそらくユーザーの多くが共感できるリアルで素朴なものではないでしょうか。
そのうえで、セフィロスのせいで魔晄を浴びたクラウドは神羅につかまり、三年間も植物人間のような状態となりました。
ザックスの手引きで神羅の施設を抜け出した時点でも廃人同然でした。
ティファの元までたどり着いたときに、ジェノバ細胞が作用してザックスの記憶を融合させた「1Stソルジャー・クラウド」が誕生します。
これも、ジェノバ細胞というフィクション的ギミックは使用しているものの、強いルサンチマンから虚構の自分を作り上げ他人や意中の相手の前で演じて見せるという行為は、素朴な共感を呼びます。
(まあ、クラウドは無自覚にやっているのですが)
そして最終盤ですべてを知ったクラウドは、自分がソルジャーになれなかったこと、なんでもない人間だった現実と向き合います。
そのうえで、ティファの「(村が焼かれたときに)ちゃんと来てくれたんだ」という一言で、
「自分は何者にも成れなかったが、幼いころに約束した存在には成れたのかもしれない」と、居場所を得るわけです。
これもやはり、多くの方が実際の人生の中で味わうことがあるものでしょう。
夢を見て敗れたものの、居場所を得て自分を知る。家庭や子供を得るプロセスによく似ています。
この「煌びやかな登場から落飾し、喪失を知り、再生する」という流れが、
クラウドに立体的なキャラクター人格と魅力を与えているのは間違いありません。
惜しむらくは、この②の物語が、①の物語とあまり連動していないことです。
ザックスの人格が滑り込んでくることや、故郷のニブルヘイムで起きたことなどは、
エピソードとして独立した存在になっており、①と世界観は共有するものの、シナジーを発揮しているとまでは言えません。
カップリング論争の際にちょくちょく
「エアリスはストーリーのヒロインだが、ティファはクラウドのヒロイン」
という評価を耳にします。僕も確かにそうだと思うのですが、その理由は、エアリスのが①のストーリーを担うものである一方、
②のストーリーでカギとなるのがティファのためなのではないかと推測しています。
それぞれ独立しているから、余計に論争を呼ぶんでしょうね。
■結論として、やっぱり「FF7」はすごいタイトルだった
これまで長文で同作の粗さがしのようなことをやってきたのですが、ここであえてもう一度断っておきたいのが、
「それでもやっぱりFF7は人気に違わないタイトルである」
ということです。
繰り返しますが、FFシリーズの魅力である「夢中になるゲーム性」は間違いなくFF7も持っており、
ストーリーにもキャラクターにも興味が無いユーザーすら強引に吸着させる力があります。
そのうえで映画のような興奮する展開が連続し、話を詳しく追っていなくても満足いく仕上がり。
不朽の名作という評価に違うものではありません。
もちろんリメイクに当たってこの評価が越えがたいハードルとなることは、言わずもがなのことです。
そのうえで、記録的なメタスコアを得て、海外でも高い評価を獲得したということは、
正直もうちょっと評価されてよいのではないでしょうか。
僕としてはPC版のリリースを楽しみにしていますし、おそらく3作目はさらに満足いく仕上がりになっているだろうと期待しています。
ファイナルファンタジーという大作の「帰還」を待ち望むばかりです。