早く起きてしまった。
いつもならここで、もう少しと言って9時くらいまで寝倒すのだが、昨日ホテルのアルバイトが終わってから夜ご飯を食べてすぐに寝てしまったので、もう9時間以上も寝たので睡眠欲がなかった。
早く起きたとて、いつもならスマホをみてニュースだのyoutubeのおすすめなどを見倒すのだが、今日はなんとなく控えた。
いつもはそうしているうちに、洗濯もできずに12時、13時と時間がすぎていく。休みの日はなぜか身支度に3時間もかかる。
(あれをしようと思ってたのに…)
(次は絶対、早く起きるぞ)
そう思いながら残りの時間をだらだらと潰していくだけだった。
時刻はまだ5時台で、いつもやりたいことができていない私は
「一体どうすればいいんだ」と恐怖であった。
あんなに望んでいた早起きなのに。
この恐怖はなんなんだ。トイレで少し考えた。いつもなら、できなかった自分を責めながら「ほら。今日もできなかったじゃないか」と自分に声をかけていた。
今日はできる。一歩踏み出せよ。
でも次またできなくなるんじゃないの?もしかして今日もこのままできなくなるんじゃないの?
そういう声が聞こえてきた。多分この恐怖は、私のネガティヴな気持ちとやりたいことができるという葛藤から生まれたものなのだと思った。
早起き。こんなにちっちゃいことではあるが、一歩踏み出すことの恐怖とはこのことではないかと思った。
「どうせ、できないんじゃないの?」「続かないんじゃないの?」
これをやってみたところで、意味がなかったらどうすんの。だったらゆっくりやすんで、youtubeでもみといた方がもう得じゃん。
そういう言葉がこれから一歩を踏み出そうとしている人を苦しめる。
だから、行動にうつすまでが本当に恐怖だ。行動に移した後は大概、やればできるじゃないか!そういう気持ちになる。たとえ、それが次だめだとしても。
そうなると、「行動する」という行為でしかこの恐怖は打ち消せないし、
あたりまえなのかもしれないが「行動する」ことの回数が私たちを肯定してくれるのだ。うん、結構あたりまえだ。