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「知らんがな」を書きたくなるのは、我々が動く点Pだから

とあるコンテストに応募しなかったことを後悔している。

「なぜ、私は書くのか」というコンテストだ。

私は下記の記事を読んで、初めてこのコンテストが開催されていることを知った。流行りに乗るのはちょっと遅い人間である。

上記の記事は、応募していなかった私の心にも刺さった。
CoCo壱でいつも5辛以上頼む私にとって、強い言葉は大好物だ。
…と言いながら、ちょっぴり傷ついているのを隠している。
おばあちゃんになっても、この記事の影響を受け続けると思う。

その中で、気になる一文があった。

知らんがな。

上記サイト

つまり、人にとって「知らんがな」の記事は、コンテストで落とされる。
読む人にとって得がないからだ。ということらしい。

あくまでも「コンテストで落とした理由」であって、「知らんがなはダメな記事!」という意味ではないことは分かってる。

でも、「知らんがな記事」より「知らんがなじゃない記事」(?)の方が、良いと評価されているということだ。

人は、他人の日記など読みたくない。
身につまされた。
だって私がそうだもの。

でもなぜか私は、「知らんがな」の記事を書きたくてたまらない。
だから、「読書感想文」とか「3つの方法」とかのお役立ち系記事に、自分のちょっとした「知らんがな」を混ぜ込んでいる。

(↑こっそりね)

偏食気味の息子の卵焼きに小松菜を混ぜ込む、あのセコイ方法だ。(昨日もやった)

そうまでして何故、「知らんがな」を書きたくなるのか?
ということを考えていたら、ちょっと答えが出そうで出ない。
なので、書いてみたいと思う。

最後は、「知らんがな」でもいいんだ、という結論にするつもりだ。
だから、多少読みにくいけど、安心して読んでほしい。

我々は動く点Pだ

いきなり何を言っているのかと思われたかもしれない。

動く点Pの話を覚えているだろうか?
数学が苦手な私でも覚えている。
中学生の数学で習った、長方形の周りを秒速1cmで進むアイツだ。

(↑動く点Pポーチも発売されていた!)

点Pは最後まで動きを止めない。
時々点Qと出会ったりする。
難しい問題だと、点Pが時々速さを変えたりする。
点Pが動いたところの面積を求めたりする。

中学を卒業して、20年ぐらい経つのに、いまだに点Pのことを思い出す。
「点P、元気かなあ…。」「今も中学生のことを惑わせているのだろうか。」

皆さん、やっと点Pのことを思い出してくれただろうか?

思い出してくれたところで、お伝えすると、
我々は人生という形を動く点Pなのだ。

一生を終えるまで、動きを止めない。

点Qとの出会い

そして、点Qとの出会いは、人生における、他者との出会いを表している。

点Qも、自分自身は点Pとして生きている。
つまり、点Qもまた、人生の主役なのだ。

点Pと点Qは、ある地点で交わることになる。

点Pは「ここにいるよ」と言う

点Pも点Qも動きを止めない。
だから、ある一定時間でしか会わないのだ。

ちょっと点Qに足を止めてほしい。
一定時間にしか合わない点Qに、「点Pに出会えて良かった」と言ってほしい。

だから、点Pは「ここにいるよ」と言う。

「ここにいる」合図を受け取った点Q

「ここにいる」合図を受け取った点Q。
ある点Qは、「知らんがな」と思うかもしれない。
他の点がどこにいようと、知ったこっちゃない、と進んでいく。

でも、ある点Qは、「ここにいる」合図を受け取って、安心する。
「自分もここにいていいんだ」と思う。

全然知らない、点かもしれない。
でも、知らない点Pの、何気ない「ここにいる」合図が嬉しいのだ。

「知らんがな、でも書く」のは「ここにいる」合図

点Pが「ここにいるよ」と言うのは、
我々が「書いたものをWEB上にアップする」という行為と似ている。
今いる場所、来た場所を示しているのだ。

誰かにとっての「知らんがな」でも、ある人にとっては、「自分はここにいていいんだ」という救いになる。

「知らんがな」でも、書いていいと思う

私は、コンテストに応募すらしていない人間だし、審査されている方を批判するなんて意図は全然ない(どころか、書いてくださって感謝しかない)

私には何の権限などもないし、こんなこと言うのはおこがましい。
だけど、日頃、「私の記事、知らんがな、って思われてるかなあ」と思ってる人が、もしも、いらっしゃったら、全然気にしないでほしいかな、と思う。

「知らんがな、かな?」と、ためらいつつ書いた記事も、誰かの「ここにいていいんだ」に繋がると信じている。


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