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私のこれまで~幼少期~

過ぎたるは及ばざるがごとし。
何かすごくいいことや物があっても、やりすぎ、食べ過ぎは毒にしかならない。何事もバランス感覚を持って、程よく、に留めたいですね。

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生きてこれた

 発達障害や知的障害を疑われて幼少期に病院かかった私です。3歳過ぎるまでほとんどしゃべらなかったことが原因。病院の先生いわく、「大人が言っていることは理解しているから大丈夫でしょう」とのこと。大人の反応や言葉をみながら、自分の中でじっくり咀嚼する癖のある自分だったから、周囲からはそう見えていたのではないかと思う。反射的に言葉を出す今とは違うよね、やっぱ。

 そんなわたしも立派なアラフォーまで、なんとか生きてこれました。自分の生活が不幸だとは思わない。小さな不満も大きな不満もあるけど、それを世間のせいだとか、国や政府のせいだとか騒ぐこともないです。何とか努力すれば届くレベルのものでもあるから。

 さて、私は幼少期、ある意味成人後もめちゃめちゃ癖のある子供(人間)だった。友人なんてほぼいないし、自分にとっても相手にとっても付き合いづらい人、付き合いやすい人、話せる人話せない人、相性良い人相性悪い人が、真っ二つに割れるタイプの人間です。
 場所によっては居場所無くすし、場所にとっては欠かせない存在になる。人によっては重用してくれるし、人にとっては信用置けない人間。
 んなもん生きていればそれぞれあるんだろうけど、ちょっと極端。

 物心ついた時から「生きづらさ」は感じていたけど、なんとかそこそこの場所でそこそこに生きていけてきた私。自分を殺しすぎることもなく、生きてこれた。今この瞬間居場所がないとか、苦しさに押しつぶされそうな人に、こんなアホでも何とか生きてこれたから、きっとあなたも生きてていいと思えるような。

 そんな自分が生きてきた「場所」と「人」について書きたいと思う。

幼稚園

 先にも述べたが、ちょっち発達に遅れがあった私は、4歳までにオムツが取れずに、幼稚園の年少さんに入園ができず、ようやくオムツが外れた年中さんから幼稚園に入園した。そのせいか、少し声の大きい人の言うことを聞かされ、また、力の強いイケイケグループにいじめられてた。ゴリラみたいな顔したあいつ、貴様のことはまだ許してないからな。
 とにかく自己主張をあまりしない子供だった。
 遊びについては、他の園児と仲良くすることはほとんどなく、幼馴染はいたが隣のクラスでこれまた接点がなく、人気の遊具は他の園児に取られ、おもちゃも貸してと言えない。楽しげに騒ぐ園児をしり目に、なんとなく時間を過ごしていた気がする。寂しかった。
 そんな自分が日々を楽しく過ごすためにとった手段は、誰よりも早く登園して、誰も競争相手が居ない時間に遊具やおもちゃで遊ぶこと。意外と当時の自分はそれで満足していたらしい。もちろん、他の園児が集合しだすと遊べない。すってん退却。
 体力面では、身体も弱く、しょっちゅう病気になり、入院していた。いわゆるもやしっ子だな。足も遅くて、びりに近い。運動に関してはいいところなんてほとんどなかった。それは今も変わらないが。

 そんなこんなでそこまで仲いい人もできずに、工夫して一人遊びをする子供だったこともあり、孤独感が強かった。意識してなかったろうが、寂しいのも我慢する子供だった。その我慢強さと孤独感が、将来自分の心を壊す発端になったんじゃないかと、今更思う。
 
 幼稚園の先生は優しく、何かまずいことすればしっかりと怒ってくれる。贔屓とかをしない、とてもいい先生だったと記憶している。けど、心開いて接していたかといえばそうじゃない。なんだろうね。先生も心開いていないことを分かっていたろうから、寂しかったんじゃないかと思う。

 ちなみに幼稚園の思い出は学芸会。
 演目は「金の斧銀の斧」。
 木こりが泉に斧を落とし、その泉に居た女神が、金の斧と銀の斧を持って登場。落としたのどっちと聞き、普通の斧を落としたと正直に答えた木こりの心意気に感動した女神が、金の斧と銀の斧を両方くれたって話。
 劇では、木こり役(複数)を演じることになったが、金の斧か銀の斧、どっちか選べるシステムで、金の斧が良かったのに、イケイケグループに金の斧をごっそり持っていかれて銀の斧を振る羽目に。さらに、本番当日に銀の斧を先生が紛失。なんとそれが私が使う予定の斧で、本番にもかかわらず、何も持たずに斧を振る真似だけさせられたなぁ。
 これ、今だったら絶対問題になるよね。

 それでも、幼稚園行きたくない!と騒ぐこともなく、しっかり通っていたんだから、当時の自分もなかなか根性があったもんである。

小学校1~3年

概略

 いろんな意味で転機になった時期。
 小学生期ってそういうところでは大きいと思う。社会人になるまで、6年間同じコミュニティの中で過ごすことってほとんどないからな。中、高は3年間、専門は2年間だったしね。中学はほぼ持ち上がりだったので、いい人も悪い人も引き続きとなったのは少し尾を引いた。

 1年生は幼稚園に引き続き地味な子供のまま。体が弱いのも変わらずで、春の遠足の日に熱を出して休んだ。幼稚園からやらかしていたことだったが、小学校に入っても同じだった。

 2年生になり、足が速くなりたいと思いついた私は、いとこの家の廊下(農家で家がでかい)でひたすら走りまくり、特訓した結果徒競走でコンスタントに2~3位を取れるぐらいには進化した(1位はスポーツ系の奴に取られた。現役には勝てないわ。)この足が速くなるということをきっかけに性格が明るくなる。子供は何かに自信が持てると、自分の殻を破ることができるんやな。それを、無意識のうちに実践したわけだ。

 3年生になるともう少し活発になるけど、自分の悪い癖が顕著に出て来る。怒られたり、何かあると黙り込んでしまうこと。大人から見れば、なんとなく黙り込んでしまうように見えていたかもしれないけど、そうじゃなくて、こう答えたらこう言われるに違いない、こう話しても納得しないに違いないと、こう答えたらこう返ってくるだろうっていう予測を立てて、じゃあ何を話しても無駄じゃないか、とか、そういうことをグルグル考えているうちに時間がたってしまう。黙り込んでるわけではなく、考え込んでしまって居るんだよね。結局そこらへんはなかなか解決できなかった。
 そのうち、あったことはそのまま話して、良し悪しの判断は相手に託す、という心理に達するけど、それもできるときとできない時があったり。
 しかし、その時も平気で廊下に立たされたりとかしたから、こころにかかる負荷は大きかった気がする。

先生

 1,2年は同じ先生。男の先生。幼稚園がずっと女の先生だったから少し心配なところもあったけど、なんていうんだろ、ザ・先生といった感じの人で、決してむやみに子供を怒ったりもしない、ちゃんと話も聞いてくれる、教えるのも上手といった、本当にいい先生というイメージ。嫌だなと思ったこともないしね。なにぶん昔のことで記憶も怪しいけど。

 3年生の担任はバリバリの武闘派。面白くユーモアもある先生だったけど、前述のとおり、結構理不尽な理由で廊下に立たされもしたし、ちゃんと気持ちを汲んでもらえなかったシーンもあった。
 話しても無駄だろうと子供に思わせちゃだめだよね。だけど、くだらない理由でもちゃんと話せばそれを受け入れてくれた。転勤後にもう一度会いに行く機会もあったし、その時も楽しく過ごせた。

 ありゃ、先生には恵まれてるな私。ここから中学入るまで、高校、専門とそこまでひどい先生には当たらなかったし。中3以外は。

勉強

 小学校前半の勉強は正直大きく躓くことはなかった。定型発達に見せかけた部分が見え隠れしていたおかげで、九九の7の段だけ覚えるのに以上に時間がかかる、三桁の掛け算がマスターできず、自宅猛勉強して、予約できるようになった、特定の漢字の読み書きだけができない、覚えられない。結構でこぼこな発達をしていた気がする。表に出なかったのは、自分自身がそれを根性と抑え込み、叩き込みでなんとかしたこと、周囲がそれを分かったうえで力を貸してくれたことが大きかった。
 ちなみに教科書を忘れた時に、先生に正直に忘れたことを言えず、進退窮まった私は、トイレにこもって1時間逃げるという暴挙に出た。先生が心配して見に来るといったことも1度や2度じゃない。今の私の図々しさを分けてあげたいホント。

運動

 運動はいとこの家での特訓の成果があり走ることのみが人並み。他はてんでダメ。自転車に乗るのに1週間以上かかってしまった。マウンテンバイクに乗り換えた時も、なかなか乗りこなせず、これも数日練習重ねてなんとかできるようになった。ここも根性で乗り切った感じ。両親がスポーツやっていたからその血は引いているはずだったけど、そこら辺の努力はしなかったし、身体を動かすこと自体嫌がっていたから運動能力は今も低いままといった感じ。
 また、遅刻が多く、朝家を出るのがいつもぎりぎりだったので、とにかく朝は走ってた。家から結構な距離があったので、距離とランドセルの重さでものすごく体力がついてしまった。ちなみにランドセルが重かったのは、道具をそろえるのが面倒で、全教科ランドセルにぶち込んで持ち歩いていた為。すごい重さだよな。間に合わなかったけど。交通安全運動があるときには、私が通過したら朝のミッションは終了。というところまで墜ちた。とにかく毎日遅刻。遅刻しない日が珍しいってレベル。どうしようもない。

父と祖父(父方)

家族は両親、姉、祖父。
 父親は仕事と社会人のクラブチームで早起き野球に命を懸けていて、仕事で帰ってきて酒を飲んで寝て、仕事に行っての繰り返し、日曜日もほとんど家に居なかった。母親に育てられていた。
 酒を飲まないとあまり話しないし、酒を飲むと可愛がってくれるけど、その絡み方が嫌で、私が20歳過ぎても酒を嫌っていたのはその後遺症もあるだろう。ああなりたくないというか。とにかく、父親との関わり方を知らなかった。苦手意識があったんだろうな。当時、愉快な人だとは思っていたらしく、クラスメイトから、他の親のほうがおもしろいと言われて、うちの親も面白い!と心の中で言っていた(口にも出さなかったし、少しイラっとした自分にも驚いた)
 社会人になって、しばらくしてから一緒に酒を飲んだり、野球観戦を楽しむようになって、共通の話題が出るようになってからのほうがうまく付き合えている気がする。昭和の親父なんぞ、酒が入ってなんぼって感じなのかもしれない。決して悪い父親ではないんだが、不器用なんだろう。
 祖父が入院し、母親が世話に行っていた間は夕食がなく、よく近くの飲み屋に誘われて、エビの塩焼きや牛タンを食べた。しかし、酒を飲んだノリについていけず、そのうち行かなくなってしまった。今考えると、父親も私とどう付き合えばいいのかわからなかったんだろう。2人で行く飲み屋は親父にとってはかけがえのないコミュニケーションの場のつもりだったろうが、逆効果。残念な感じだ。
 幼少期の私にとっては、愛情は注いでくれているものの、その注ぎ方がへたくそな大人、というイメージから脱却できなかったなぁ。

 空回りしている親父と違い、祖父は身近な大人の中で尊敬、かつ最も立派な人物だった。現役時代何していたかも知らんけど。
 祖父は、私が小学校3年生の時に亡くなるまで、同居していた。
 父親に苦手意識があった分、祖父には苦手意識は全くなく、一緒に風呂に入った回数も父親の数倍。一緒に祖父の部屋で、水戸黄門や三匹が切る!、遠山の金さん、大岡越前といったTV番組を見るのが好きだった。今も自然に時代劇を楽しめるのは、この時の経験が大きいのかもしれない。
 近所や親戚の中での人望が厚く、大工で、何でも自分で作れた。乳児期の私が家の敷地から出ていかないように設置されたゲートも、寝相が悪すぎてベッドから転げ落ちる私の為に、ベッド柵を作ってもくれた。
 コーヒーが好きで、インスタントコーヒーがまだ世の中に広まる前から購入していたとか、家にLD(レーザーディスク)プレーヤーがあって演歌がめちゃくちゃうまかったとか(父親は死ぬほど音痴)。何でもこなせる偉大な人だった。
 家族の中でも、父親は農民、祖父は下級武士と、身分そのものが変わってしまうほど。もしかしたら、そういうところにコンプレックスを感じていたのかもしれない。子供の頃の親父と祖父が、どんな絡みをしていたかも知らないし。
 たぶん、父親が祖父に感じていたのも私と同じような感情だったのかもしれない。私が、酒や野球、その他のことで父親と関われるようになったのと違い、親父が祖父とそういう絡みをしていたところはあまり見たことがなかった。距離があったままだったのかな。不器用だが優しかったから、祖父に何もできなかったと思っているのかもしれない。
 祖父の死後、葬儀後に泣いていた父親。定期的に、祖父の仏壇の前に座り、じっと位牌を眺めていた父親。子供心に自分の父親の遺灰をじっと眺める姿が印象に残っていた。じっと位牌を眺めて過ごしながら、祖父と向き合えていなかった、祖父と関われていなかったことを後悔していたのかもしれない。父親本人に聞くつもりもないし、本人も墓の下までもっていくつもりなんだろうが。
 
 ちなみに、母方の祖父のほうが、つい最近まで生きていたから付き合いは長かった。仕事始めるまで夏冬は長期間泊りに行っていたから、そこから吸収するものも多かった気がする。
 それはまた次の機会に書くとして

趣味

幼少期の趣味。
・仮面ライダー
・ゲーム(ファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイ)
・ゴジラ
・電車(プラレール)

 ゲーム機に関しては、父親ではなく祖父が、ファミコンとゲームボーイをやっていたことが大きかった。ファミコンでマージャン、ゲームボーイでドクターマリオ。とにかく両方上手で、特にドクターマリオの腕は正確だった。もしかしたら、今の私よりも上かも。
 そういったものに気軽に触れることができる環境だったのと、家に異物ではなく、すでに受け入れられていたものだったというのは大きかった。これから先も、パソコンやDVDとか、当時最新のテクノロジーがどんどん導入されたのも、祖父の新し物好きが大きかった。

頭痛

 小学校2年生の1年間、朝はひざの痛みと頭痛がすごかった。今はすぐに頭痛薬を飲んでしまうが、当時は頭の痛みを周囲の大人に伝えることなく、ただただ耐え忍んでいた。自分の気持ちや体調を外に出さない私らしい方法。頭痛がデフォで、何もない日が珍しく、そういう日は空が輝き、身体がとても軽く感じたもんだ。その片頭痛癖は、アラフォーの現在も継続中。頭痛薬は必ず持ち歩いております。
 しかし、毎日すさまじい頭痛と共存していたとか、今考えてもぞっとする。いったいどんな子供だよまったく。
 頭痛、小学校3年生ぐらいになると落ち着いた。

また長くなったので、今日はここまで。
次回は小学生期の続きを。

 

 
 

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