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小説「吉田指令長の指令日誌」~第3章~

三 不安

「やっぱり吉田さん、持ってますね」
 遠野がボソッと口にしたその言葉が胸にグサリとつきささる。日頃であればさして気にならないその「持つ」という言い方だが、今日は同じことを言われて不快に感じた。多分、自分が精神的に疲労しているのだろうと分析する。確かに前日の当直指令と交替してから、今日は昼前に踏切で人身事故、夕方には線路と交差する道路を走るトラックが橋りょうに衝突したりと、一日中バタバタすることが続いた。
 雨も降る予想はあったが、まだ五月中旬。梅雨前の季節に徐行がかかることはあっても、停止鳴動がかかるような強い雨が降ることなど想像もしていなかった。

 現場勤務の時も最近の雨が強くなったことを感覚的に感じていたが、指令では雨量計にあがる数値や雨雲レーダーの色で確認することで、さらに自分が気候変動に敏感になったと感じる。雨の変化は日本近海の海水温度が高くなったことに起因していると言われているが、五月でこのような雨が降るのであれば、今からの梅雨を迎えて、また大きな災害が発生することも頭をよぎる。
 今日はゆっくり仮眠も取りたかった。夕方乱れたダイヤも夜にはほぼ正常に戻り、深夜二時からの休憩時間が近づいていたのに急に雨に見舞われたのだ。ここまで事象が続くとさすがに自分の行いが悪くて、天に罰を与えられているのではないかと自分でも考えてしまう。そのような心境でいる時に「持っている」などと言われたくないものである。

 なぜか保線指令では、昔から事象の発生を当日の指令長のせいにする悪しき慣習がある。様々な事象が指令長個人のために起こるわけではないことは明らかである。しかし、ずっと続く不運のトラブルに見舞われれば、その理由を誰かのせいにしてやり過ごしたくなるのが、弱い人間なのかもしれない。

 鉄道では大雨への安全対策として、斜面が崩れないようにコンクリートなどで補強する工事が行われている。しかし、路線の延長は膨大であり、その工事には莫大な費用が必要となるため、会社の経営状況を鑑みれば、現状では運転規制により列車の安全を守るしか方法がないと、吉田だけでなく施設関係の社員は諦めている。

「もっとお金を稼いで線路全体の防災強度上げないと、こんな雨で列車止まったら困るんだけど・・・・・・」

   大学で土木工学を専攻し、地球環境問題に興味を持った。旅行が好きだったので、これからは鉄道も発展させていかないという思いで鉄道会社を選んだが、高速を含めて道路網の進展と自動車社会では都市部の鉄道を除けば収支の苦しい線区ばかりであり、ローカル線の存続問題がマスコミで報道されている。特に豪雨により被災した線区については、その復旧費用が捻出できずに廃線の可能性が高い。

「こんな雨が五月に降るんなら、今年の夏も、またどこかで災害起きるでしょうね。もう、人間も猫を見習って夏場は働くなんてことは止めてじっと寝てたらいいんですよ」

 まさか自分が思っていたことと同じことを遠野が言うとは思わなかった。実家の猫が夏場は無駄な動きをせずに、ずっと動かないでじっとしていることには気づいていた。多くの動物も同じで、体温が上昇しないようにしている。
 人間だけが夏場にも精力的に活動し、そのために熱くなった身体をエアコンなどで冷やし、更に無駄なエネルギーを使っているのかもしれない。自室だけは涼しくて快適かもしれないが、室外機からは温風が吹き出していることに気づきながらも、既にその行為をやめられない状況にまで陥っている。昨今の地球規模の問題を知るたびに人間の経済活動の弊害について考えるようになってしまっている。

「点検は順調か?」
「あと、どれくらいで終わりそうか?」
「現場から連絡が無いなら、こっちから電話して聞いてくれないか?」
 
 点検は既に始まっている。点検者が現場へ向かう場面で雨に降られて開始は少し遅れたが、四時五分に点検カートで始まったと伝えた。終了予定時間はいまだ四時五十分のままとしている。

 それでも佐久間は始発列車への影響が気になるのか、指令室内をウロウロと歩き回る。そして吉田の傍らを通る度に点検の進捗状況を尋ねてくる。どうやら吉田が現場からの連絡を待っているだけで、積極的に情報を取りにいかないことが不安なのだろう。
 佐久間の気持ちは分かるが現場の人間は今まさに必死に点検をしているのだ。現場長に進捗状況を尋ねれば、結局現場でカートを運転しながら移動している点検者に確認してもらうことになる。

 吉田は指令から点検指示をした後は、極力こちらから状況確認を頻繁にすると良くないと考えている。焦らせることで事故さえ起こしかねない。しかも、現場長の立川はベテランでもあり、始発列車を抑えることの意味を十分理解している。 今は現場の点検作業に集中させてもらいたいと思う。
「今は点検中なので、連絡を待ちます。連絡があれば報告しますので、もう少し待っていてください」
 自分の心に不安も確かにあるが、現場を信じたい。この日、初めて吉田は運行指令長からの指示に反論した。

 新人のしかも初めての女性指令長から、「もう少し待つように」と返されて、佐久間は一瞬頭に血が昇りそうになったが、その吉田の毅然とした態度に、それ以上の干渉をすることはやめた。
「分かった。連絡来たらすぐ報告をお願いします」
とだけ伝えて、佐久間は自分の席に戻って行った。


つづく


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