小説「着物でないとっ!」⑤-1
5 決心
車の右手には関門海峡を行き交う外国船が視界から途切れることなく見えている。ハンドルを握る幸、そして助手席に乗るるゆきはその景色の中を長府へ向かっている。
「先生はオーナーとは親しいんですか? 諸田さんは一回しか会ったことないって言ってましたけど」
ゆきは、まだ会ったことの無い門司和裁のオーナーのことを尋ねてみる。
「実は、私も学長を任せてもらった後は数回しか会ったことがないのよ」と、幸は正直に答えた。
「オーナーは、創立者のお孫さんにあたるのだけど芸術の道に進みたいということで、和裁からは完全に身を引いたの。他に跡継ぎとなる人もいなかったので、学院については私に任せるということで、今まで学院の経営報告もしたことはないのよ」
「オーナーなのに経営を任せっきりって、少しおかしいじゃないですか?」
「確かに、私に一任するってことで話が始まったから、それでも良いって思ってたし、学院の経営自体はみんなが頑張ってくれているから悪くは無いのよ。だから、私も自分から報告することはしていないの。でも、学校の存続条件の話になると、オーナーに伝えない訳にもいかないし、私も、ここまで和裁を目指そうというひとが少なくなるなんて予想していなかったのよ。今日、学院の状況を報告して、オーナーがもしも廃校するようなことを言い出さないかが心配なの。私も責任者として、生徒を少なくしてしまった一因はあると思っているしね」
ゆきは、大好きな先生が学院のことでこんなに悩んでいたことを知らずにいたことを少し恥じた。そして、幸の苦悩を少しでも助けてあげたいと強く思った。
*
老松が学院に来た翌日、幸は学院の皆を集めて、昨日の件を含めて学院の現状について説明を行った。口にするひとつひとつの事実は、幸にとっても学院の危機を直視させるつらいものであった。創立された時のことから現状まで。老松から指摘されたとおり学校として存続するためには生徒数の条件があること。役所からの指摘もないため皆にはあえて知らせなかったということを皆に正直に話した。
幸は皆に話をしながら、学院の責任者としての責任の重さと後悔の念につぶされるような気持ちになった。確かに、着物自体の利用者の減少というとてつもなく大きな流れに成す術が無かったと言い訳もしたいが、有効な策を何も取れなかったことについて自分でも後悔が拭ぐえなかった。
幸の説明は真摯なものであったが、学院で働く職員、そして生徒として到底納得出来るものではなかった。
「では、そのひとが役場に報告したら、この学院は廃校になるということですか?」
「市内の高校とかに、もっとこの学院の宣伝をすべきだったのではないですか?」
一通りの説明が終わった後に、職員の皆が口ぐちに不満や質問を声にした。
「高校も最近は介護関係の学校には力をいれているみたいで、しかも和裁はどうしても内職のイメージが払拭できなくて、職業として考えるひとがいないみたい」
「すいません。私、思ったことがあるんですが?」
職員が銘々に幸に対しての不満をあげるのをゆきは黙って聞いていたが、いたたまれなくなって声をあげた。
「私も、この学院のことを三年前は全く知りませんでした。着物を着ることもほとんど無かったし、今みたいに和裁をする人が、いなくなったことは先生ひとりで解決できることじゃないですよね」ゆきのその言葉を皆が静かに聞いた。
「でも、もっと和裁や裁縫のことをたくさんの人に知ってもらったら、やりたい人はきっといるんじゃないかと思うんです」
「どういうこと?」職員のひとりが聞き返した。
「私たちの中学校や高校の授業では、ほとんど裁縫のことを教わっていないんですよ。技術家庭では男女平等の授業なんで女子も木工細工したりで裁縫の時間は少なかったんです。パソコン関係の授業も多くなったんで、ほんの少しかじっただけなんですよね」
「技術家庭がある学校はまだいい方で、受験科目の授業ばかりに力を入れてる学校も多いですよ」
「学校も大学の合格率ばかり気にするから受験競争が進んでみんなが進学しないといけないような状況で、専門学校にいくひとは頭が悪いからだって言われるから、親が進学を勧めるんだよって、マスターが」
「マスター?」
「BINGOの? またお店に行ったの、ゆき?」とどこからか声があがる。
「昨日は私が落ち込んでいたから、さくらと美咲が励ましてくれるって言われて」
「でも、マスターが言うには、私たちがやっている裁縫をもっと目につくように、ひとの多い所でお店でもしてみたら面白いんじゃないかって。マスターは私たちが運針縫いをしているのを見るだけども、興味を持ってくれるひとがいるんじゃないかって言ってくれました」
「でも、お店を出すって言ったってねぇ」
「お店を出すお金はどうするの?」
「それは……、当然お金がかかることで簡単にはいかないけど……」
話を静観していた幸であったが、ゆきが返答に困っているのを見て口を挟んだ。
「みなさん、少し聞いてください。私も学院の生徒の減少について、心配はしていましたが、これといった対策を打っては来ませんでした。でも、和裁士になりたいという若いひとは本当に減っていて、みなさんも知っているとおり、着物の海外縫製がどんどん増えている状況です。このままでは、学院の生徒もいなくなることも予想されるし、学院の宣伝について、何かをしないといけないと思っていました。私は、今回の件についてオーナーの所に相談しに行くように考えています。約束は出来ませんが可能であれば資金の協力もお願いしたいと思っています」
「オーナーって?」とゆきは小声で諸田に尋ねる。
「この学院のオーナーよ。私も一回しか会ったことないんだけど、幸先生はその人から学院の経営をまかされているのよ。確か、長府に住んでいると聞いてるけど。でも、もう和裁からは一切手を引いていると聞いたこともあるわ」
ゆきは、自分の知人のせいで先生を苦しい立場にしたこともあり、何か出来ることはないかと考えていた。オーナーがどのようなひとかは全く解らなかったが、居ても経ってもいられず、説明している幸に声をかけた。
「先生、私も一緒に行ってはいけませんか?」
「ゆきちゃんが?」
「老松さんは私の知り合いでもあるし、このまま学校がなくなったら私も困るし……」
今回の件について、ゆきは居ても立っても居られない心情であった。
つづく