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深淵の共生迷宮~天才探偵・神藤葉羽の禁断推理~
1章
静寂を切り裂く悲鳴
春の柔らかな日差しが差し込む午前10時、神藤葉羽は自宅の書斎で分厚い推理小説を読み耽っていた。電子書籍の画面に映し出された文字を追いながら、彼は事件のトリックと犯人の動機について深く考察する。推理小説は、彼にとって単なる娯楽ではなく、思考の訓練であり、世界を読み解くためのツールだった。
葉羽が住むのは、郊外の閑静な住宅街に佇む瀟洒な一軒家だ。両親は海外赴任中で、広大な屋敷に一人で暮らしている。17歳にしては大人びた雰囲気を持つ葉羽は、学年トップの成績を誇る秀才であり、同時に卓越した推理力を持つ「天才高校生探偵」として、一部では知られた存在だった。しかし、彼自身は名声に興味はなく、ただ純粋に謎を解くことを楽しんでいた。
「葉羽君、ちょっといいかしら?」
優しい声に呼ばれ、葉羽は顔を上げる。書斎の扉の前に立っていたのは、幼馴染の望月彩由美だった。彼女は葉羽と同じ高校に通う同級生であり、いつも明るく天真爛漫な少女だ。艶やかな黒髪と愛らしい笑顔は、見る者の心を和ませる。
「彩由美、どうしたんだい? 珍しいな、こんな時間に」
葉羽は電子書籍の電源を切り、立ち上がって彼女を迎える。彩由美は少し緊張した面持ちで、手に持っていたスマートフォンを葉羽に見せた。
「ねえ、葉羽君。これ、見てくれない?」
スマートフォンの画面には、ニュースサイトの記事が表示されていた。山奥にある常盤邸で、住人である天才科学者、常盤壮一郎が遺体で発見されたという速報だった。記事には現場の写真も掲載されていたが、解像度が低く、詳しい状況は分からない。ただ、壮一郎の遺体が異様に捻じ曲がっていることだけは見て取れた。
「常盤壮一郎…確か、遺伝子工学の権威だったはずだ。彼がこんな形で亡くなるとは…」
葉羽は眉をひそめ、記事を読み進める。発見されたのは、自宅の地下にある実験室だった。部屋は密室状態で、内側から三重に鍵が掛けられており、窓には鉄格子、換気口は子供すら通れないほど狭いという。凶器は見当たらず、死因も不明。警察は事故と事件の両面で捜査を進めているとのことだった。
「なんだか、気味が悪いわね…」
彩由美は不安そうに呟く。彼女はホラーやオカルトが苦手で、この記事を見て酷く動揺しているようだ。
「密室で発見されたという点が興味深いな。状況から見て、自殺の可能性は低そうだ。しかし、外部から侵入した痕跡もない。一体どうやって犯行に及んだのだろうか…」
葉羽は推理の虫が騒ぎ出すのを感じていた。一見不可能と思われる状況に、彼の探求心は刺激される。彼は事件の詳細を知りたいと思い、警察に知り合いがいないか考え始めた。
「ねえ、葉羽君。まさか、この事件を調べようと思ってるんじゃないでしょうね? 危ないことには首を突っ込まないでよ?」
彩由美は心配そうに葉羽を見つめる。彼女は葉羽が危険な事件に巻き込まれることを恐れていた。
「心配するな、彩由美。ただ、少し興味があるだけだ。それに、この奇妙な事件の真相を解明することで、壮一郎さんの無念を晴らせるかもしれない」
葉羽は穏やかな口調で彩由美を安心させようとする。しかし、彼の瞳には好奇心と探求心が宿っていた。
「でも…」
彩由美はまだ不安を拭いきれない様子だった。その時、ニュースサイトの記事が更新され、新たな情報が追加された。壮一郎の遺体写真の一部が、モザイクなしで公開されたのだ。
「あっ…!」
彩由美は思わず悲鳴を上げ、スマートフォンを落としそうになる。公開された写真には、壮一郎の腕が不自然な方向に曲がり、まるで内部から何かに砕かれたかのような様子が写っていた。人間の骨格ではありえない角度に折れ曲がった腕は、見る者に異様な恐怖を感じさせる。
「これは…一体…」
葉羽も写真を見て言葉を失った。写真に写る壮一郎の腕は、まるで人形のように歪んでおり、通常の事故や事件でできる傷跡とは明らかに異なっていた。
「まるで、人間じゃないみたい…」
彩由美は震える声で呟く。その言葉は、葉羽の心にも言い知れぬ不安を掻き立てた。静寂な日常を切り裂くように飛び込んできた異様な事件。天才科学者の不自然な死。そして、公開された写真に写るおぞましい光景。葉羽は、この事件が尋常ではないことを確信する。
「彩由美、俺は…この事件を調べることにする」
葉羽は決意を込めて呟く。彼の脳裏には、壮一郎の異様な遺体の姿が焼き付いていた。それは、単なる猟奇事件ではない。もっと深い闇が隠されている。葉羽は直感的にそう感じた。
「えっ…でも…」
彩由美は戸惑いの表情を浮かべる。彼女は葉羽を止めたいと思ったが、彼の決意の固さを感じ取り、それ以上何も言えなかった。
「大丈夫だ。俺が必ず真相を突き止める」
葉羽は彩由美を安心させるように微笑むが、その表情には不安の色も滲んでいた。彼は知っていた。この事件の先に、想像を絶する恐怖が待ち受けていることを。
そして、その恐怖は、彼らの日常を静かに蝕み始めていた。
春の陽光が差し込む書斎には、不穏な空気が漂い始める。葉羽と彩由美は、これから始まる悪夢の序章に、まだ気づいていなかった。
2章
禁断の研究室
常盤邸は、山奥の深い森に囲まれた広大な敷地の中に建つ、重厚な洋館だった。周囲には人影はなく、鳥のさえずりだけが静寂を破る。葉羽は警察の許可を得て、事件現場である地下の実験室へと向かっていた。案内役の刑事は、どこか疲れた表情を浮かべている。
「常盤博士は、この地域でも有名な変わり者でね。研究に没頭するあまり、近所付き合いもほとんどなかったそうだ」
刑事はそう言いながら、重々しい鉄の扉を開けた。扉の向こうには、薄暗い階段が続いていた。
「実験室は地下にあります。博士は、ここで一体何を研究していたのでしょうか…」
刑事は首を傾げながら、階段を下りていく。葉羽はその後を追い、地下へと続く階段を踏みしめた。空気は冷たく、生臭い匂いが漂っていた。
階段を下りきると、そこは広大な地下空間だった。いくつもの部屋が迷路のように複雑に配置され、異様な雰囲気が漂っている。刑事は葉羽を事件現場である実験室へと案内した。
実験室の扉は厚い鋼鉄製で、内側から三重に鍵が掛けられていた。窓は小さく、鉄格子で覆われている。換気口も狭く、人が通れるような隙間は一切ない。まさに「密室」と呼ぶにふしのない空間だった。
「ご覧の通り、完全な密室状態です。外部からの侵入は不可能と思われます。しかし、内部に凶器は見当たらず、死因も特定できていません。一体何が起きたのか…」
刑事は困惑した表情で説明する。葉羽は実験室の中へと入り、周囲を注意深く観察し始めた。
部屋の中は、実験器具や薬品、書類などが散乱していた。壮一郎が最後に何かを焦って探していたかのような、慌ただしい雰囲気が残っている。葉羽は一つずつ丁寧に見ていき、手がかりを探した。
壁には、複雑な数式や化学式がびっしりと書き込まれたホワイトボードがあった。壮一郎の研究内容を理解するには、高度な専門知識が必要だろう。葉羽は写真を撮り、後で詳しく調べてみることにした。
机の上には、開かれたままのノートパソコンがあった。画面には、遺伝子配列らしきデータが表示されている。葉羽はマウスに触れ、データの内容を確認しようとしたが、パスワードでロックされていた。
「博士は、遺伝子工学の権威として知られていましたが、その研究内容は謎に包まれていました。一体どのような研究をしていたのでしょうか…」
刑事は呟くように言う。葉羽はパソコンから目を離し、部屋の奥に目を向けた。そこには、大型の培養装置が設置されていた。培養装置には複数の培養槽が並んでおり、それぞれに液体が入っている。しかし、一つだけ空の培養槽があった。
「これは…?」
葉羽は空の培養槽に近づき、中を覗き込んだ。培養槽の内側には、わずかに液体が残っていた。葉羽は指先で液体を触り、匂いを嗅いでみた。
「生臭い…まるで、生物の体液のような…」
葉羽は眉をひそめた。この培養槽には、一体何が培養されていたのだろうか。そして、なぜ空になっているのだろうか。
「何か気になる点でも?」
刑事が尋ねる。葉羽は考えを整理しながら、ゆっくりと口を開いた。
「この実験室、何かが欠けているように感じませんか? 壮一郎さんの研究内容を考えると、もっと多くの実験器具や資料があるはずです」
「確かに、博士の研究規模を考えると、少し物足りない気もしますね…」
刑事は同意するように頷いた。葉羽は再び部屋全体を見渡し、何かを見落としていないか確認する。
その時、葉羽の視線はある一点に釘付けになった。実験室の奥、培養装置の横に、小さな扉があったのだ。扉は壁の色とほぼ同じで、非常に見つけにくい。
「これは…?」
葉羽は扉に近づき、ゆっくりと開けてみた。扉の向こうには、さらに狭い空間が広がっていた。そこは、まるで秘密の保管庫のような場所だった。
保管庫の中には、いくつかの棚が設置されており、様々な物が保管されていた。薬品、実験器具、そして…小さなガラス瓶が幾つも並んでいた。ガラス瓶の中には、ホルマリン漬けにされた生物の標本が入っていた。
葉羽はガラス瓶を一つ手に取り、中を覗き込んだ。標本は、人間の胎児に似た奇妙な形状をしていた。皮膚は半透明で、内臓が透けて見えている。
「これは…一体…」
葉羽は言葉を失った。この異様な生物は、一体何なのか。そして、壮一郎はなぜこのような生物を研究していたのか。
葉羽は、この事件が想像以上に複雑で、危険なものであることを悟った。そして、この秘密の保管庫に隠された謎が、事件の真相を解き明かす鍵となることを確信した。
その時、背後から物音が聞こえた。葉羽が振り返ると、そこには誰もいなかった。しかし、確かに何かが動いた気配がした。
「気のせいだろうか…」
葉羽は不安な気持ちを抱きながら、再び保管庫の中へと視線を戻した。しかし、そこにあったはずの小さなガラス瓶の一つが、忽然と姿を消していた。
3章
異形の胎児
消えたガラス瓶。それは、まるで葉羽の疑念を確信させるかのような出来事だった。ただの事故や単純な殺人事件ではない、何か得体の知れないものが、この事件には絡んでいる――。葉羽は、保管庫の中で深呼吸をし、混乱する思考を鎮めようとした。
まずは、あの異形の胎児らしき標本について調べなくては。壮一郎の研究内容を知る人物がいれば…。葉羽は、壮一郎の交友関係について警察に問い合わせ、ある人物の存在を知る。花染朔太郎(はなぞめ さくたろう)。壮一郎とは大学時代からの友人であり、共に遺伝子工学の研究をしていたという。今は地方大学の生物学教授をしているらしい。
早速、葉羽は朔太郎に連絡を取り、大学の研究室を訪ねた。朔太郎は、白衣を羽織り、眼鏡の奥に鋭い眼光を宿した初老の男だった。彼は壮一郎の訃報にショックを受けている様子だったが、葉羽の訪問には快く応じてくれた。
「壮一郎の研究か…。彼は、常に常識の枠を超えた発想をする男だった。優秀だったが、同時に危険な思想も持っていた」
朔太郎は、苦々しい表情でコーヒーを口にする。葉羽は、保管庫で見つけた標本の入ったガラス瓶の写真を見せ、この生物について知っているか尋ねた。写真を見た朔太郎は、目を見開き、表情を硬くした。
「これは…まさか、ここまで研究を進めていたとは…」
朔太郎は、驚きと同時に恐怖を感じているようだった。彼は、葉羽に壮一郎の研究内容について語り始めた。
壮一郎は、人間の遺伝子を操作し、新たな生命体を創造することに異常な執着を持っていたという。彼は倫理的な問題を無視し、禁忌とされる研究に手を染めていた。そして、その研究の成果が、あの異形の胎児のような生物だった。
「壮一郎は、この生物を『共生体』と呼んでいた。人間の細胞と、深海で発見された未知の生物の細胞を融合させて作り出したそうだ。その深海生物は、極限環境に適応するために驚異的な再生能力と変態能力を持っていたらしい」
朔太郎の説明を聞きながら、葉羽はあの不自然に捻じ曲がった壮一郎の遺体の姿を思い出した。まるで、内側から何かによって破壊されたかのような異様な状態。もしかしたら、あの共生体が関係しているのだろうか…。
「共生体は、宿主の体内に侵入し、その肉体を操ることができる。壮一郎は、この生物を生物兵器として利用することを考えていたようだ。しかし、私は彼の研究の危険性を警告し、中止するように説得した。だが、彼は私の忠告を聞き入れなかった…」
朔太郎は、後悔と自責の念に駆られているようだった。彼は、壮一郎の研究が制御不能な事態を引き起こすことを予感していた。そして、その予感は現実のものとなってしまった。
「共生体は、非常に危険な存在だ。もし、それが外部に漏れ出したとしたら…」
朔太郎は言葉を詰まらせ、険しい表情で葉羽を見つめた。
「神藤君、君もこの事件には関わらない方がいい。壮一郎の死は、単なる事故ではない。何か恐ろしいことが起こっている。君も危険な目に遭うかもしれない」
朔太郎の言葉は、警告というよりも懇願のようだった。葉羽は、彼の言葉に重みを感じながらも、事件の真相を解明したいという思いを強くしていた。
「花染先生、教えていただいた情報に感謝します。しかし、私はこの事件を放っておくことはできません。常盤さんの死の真相を、必ず明らかにします」
葉羽は、強い決意を込めてそう言った。朔太郎は、葉羽の決意の固さを見て、諦めたように息を吐いた。
「そうか…君の意志は固いようだな。しかし、くれぐれも気を付けるんだ。この事件は、君が考えている以上に複雑で、危険なものだ」
朔太郎は、最後にそう忠告し、葉羽を見送った。葉羽は、朔太郎の研究室を出て、大学の構内を歩きながら、今聞いた話を整理していた。共生体、宿主の体内への侵入、生物兵器…。全てが、まるでSF小説のような話だった。しかし、壮一郎の遺体の状態を考えると、この共生体が事件に深く関わっている可能性は高い。
その時、葉羽のスマートフォンが震えた。差出人不明のメールだった。葉羽はメールを開き、内容を確認した。
「真実に近づくな」
たった一言のメッセージ。しかし、その言葉は、葉羽の心に冷たい恐怖を突き刺した。一体誰が、何の目的でこのようなメールを送ってきたのだろうか。そして、彼らが知っている「真実」とは、一体何なのか。
葉羽は、深い闇の中に足を踏み入れてしまったことを、改めて実感した。そして、その闇は、彼を静かに呑み込もうとしていた。
4章
消えた足跡
「真実に近づくな」――簡潔ながらも、底知れぬ悪意を孕んだそのメッセージは、葉羽の心に暗い影を落とした。一体誰が、何の目的で自分へ警告を送ってきたのか。朔太郎の言葉も脳裏に蘇る。「この事件は、君が考えている以上に複雑で、危険なものだ」
葉羽は脅迫めいたメールの差出人を特定しようと試みたが、送信元は偽装されており、手掛かりは得られなかった。警察も捜査を進めていたが、密室状況と死因不明という謎の前に、捜査は難航しているようだった。事故として処理しようとする動きもある中、葉羽は納得できなかった。何かを見落としている、重要なピースが欠けている――そんな焦燥感に駆られていた。
もう一度、現場を自分の目で確かめたい。葉羽は再び常盤邸を訪れ、警察の許可を得て、地下の実験室に入った。散乱した資料、複雑な数式が並ぶホワイトボード、そして、空になった培養槽…。葉羽は、前回よりもさらに注意深く、細部まで観察しようと努めた。床には、前回見落としていた微かな痕跡があった。泥の付着だろうか、よく見ると、人間の足跡とは異なる形状をしていた。
「これは…?」
葉羽はしゃがみ込み、痕跡を指でなぞる。三本指のような、奇妙な形状。大きさは人間の子供の手ほどだが、指の間隔は広く、まるで爬虫類の足跡のようにも見えた。共生体…朔太郎の言葉が葉羽の脳裏をよぎる。「宿主の体内に侵入し、その肉体を操ることができる」――もし、この足跡が共生体のものだとしたら? 壮一郎の体内で何かが起こり、そして、この足跡を残して何処かへ行ったのだろうか?
葉羽は、この奇妙な足跡を辿ってみることにした。足跡は、実験室の奥へと続いていた。実験台の下、薬品棚の後ろ…まるで、何者かが意図的に隠れるように移動したかのようだ。そして、足跡は、実験室の壁際で途絶えていた。
「行き止まり…?」
葉羽は壁を注意深く調べ始めた。叩いてみた感触は、ただのコンクリート壁のようだが…。その時、葉羽の指先に、わずかな隙間を感じた。壁の一部が、僅かに内側にへこんでいる。隠し扉か?
葉羽は、その部分に力を込めて押してみた。すると、重々しい音が響き、壁の一部が回転し始めた。隠し扉だ。扉の向こうには、さらに暗い空間が広がり、下へと続く階段が現れた。地下のさらに地下? 常盤邸の設計図には、こんな空間は記載されていなかったはずだ。
葉羽は懐中電灯を取り出し、階段を下り始めた。冷たく湿った空気が肌を刺す。地下迷宮のような、不気味な静寂が葉羽を包み込む。階段は長く、どこまで続くのか見当もつかない。まるで、深淵へと誘われているかのようだった。
しばらく進むと、階段は行き止まり、鉄の扉が現れた。扉には鍵はかかっておらず、軽く押すと音を立てて開いた。扉の向こうには、薄暗い部屋があった。実験室よりもさらに雑然としており、埃っぽい空気が淀んでいる。実験台の上には、使用済みのビーカーやフラスコが散乱し、床には乾いた泥の跡が残っていた。ここにも、あの奇妙な足跡があった。
葉羽は、この部屋が壮一郎の秘密の研究室ではないかと推測した。公式な設計図には載っていない、隠された研究室。ここで、壮一郎は一体何を研究していたのだろうか? そして、あの足跡の主はどこへ消えたのか?
5章
地下迷宮の囁き
秘密の研究室は、公式な実験室よりも狭く、混沌としていた。薬品や器具が雑然と積み上げられ、床には乾いた泥の他に、得体の知れないシミが広がっていた。空気は重く、生臭い匂いが鼻をつく。葉羽は、この場所で常盤壮一郎が、倫理の境界線を踏み越えた研究に没頭していたことを肌で感じた。
懐中電灯の光を頼りに、葉羽は部屋の中をくまなく調べ始めた。壁には、公式実験室にあったものとは異なる、さらに複雑で難解な数式や図形が書き殴られていた。まるで、狂人の落書きのようにも見えるが、葉羽はそこに何らかの規則性、壮一郎の思考の痕跡を読み取ろうと努めた。
実験台の上には、厚い研究日誌が置かれていた。埃を払い、ページをめくると、そこには壮一郎の研究の記録が詳細に綴られていた。共生体に関する記述、培養液の組成、そして、驚くべきことに、人体実験を示唆するような記述もあった。
「まさか…人体実験まで…?」
葉羽は、背筋が凍る思いだった。壮一郎は、倫理も常識も完全に捨て去り、禁断の領域へと足を踏み入れていたのだ。研究日誌を読み進めるうちに、葉羽は共生体に関する新たな情報を得た。共生体は、特定の薬品によって急速に成長し、宿主の神経系を乗っ取り、肉体を操ることができる。そして、宿主の死後、再び胎児のような状態に戻り、新たな宿主を探すという。
まさに、朔太郎の言葉通りだった。しかし、日誌にはさらに恐ろしい事実が記されていた。共生体は、宿主の記憶や人格までも吸収し、自らの進化に利用するというのだ。つまり、共生体に寄生された人間は、もはや自分ではなく、異形の生物に支配された操り人形と化してしまう…。
葉羽は、日誌の内容に戦慄した。この研究が完成すれば、世界は一体どうなってしまうのか。想像するだけで恐ろしい未来が脳裏に浮かぶ。
その時、彩由美の声が聞こえた。
「葉羽君、大丈夫?」
葉羽が振り返ると、彩由美が研究室の入り口に立っていた。彼女は心配そうに葉羽を見つめている。
「彩由美、どうしてここに…?」
「心配で…一人で行かせるのは不安だったから…」
彩由美は、少し恥ずかしそうに言った。葉羽は、彼女の優しさに胸を打たれた。
「すまない、心配をかけて。でも、来てくれてよかった。一人では心細いところだった」
葉羽は、彩由美に微笑みかけた。彼女の存在が、この不気味な空間で張り詰めていた葉羽の心を少しだけ和らげてくれた。
二人は一緒に研究室を調べ始めた。壁一面に設置されたモニターに、監視カメラの映像が映し出されていた。実験室、保管庫、そして、この秘密の研究室の様子が記録されている。葉羽は、壮一郎が最期に何をしていたのかを確認しようと、録画を再生した。
映像には、壮一郎が培養槽の前に立っている様子が映っていた。彼は何かを培養液の中に注入し、様子を観察している。そして、突然苦しみ始め、床に倒れ convulsionsを起こし始めた。まさに、死の瞬間が記録されていた。
しかし、映像には犯人の姿は映っていなかった。密室は完全な状態であり、外部からの侵入は不可能。内部に犯人が隠れていた可能性も低い。一体、誰が、どうやって壮一郎を殺害したのか?
再生が終わった直後、モニターにノイズが走り、画面が暗転した。そして、再び画面が点灯した時には、そこに奇妙な映像が映し出されていた。それは、まるで人間のようで人間ではない、異形の「手」だった。三本指の、爬虫類のような手。それは、床に残されていた足跡と同じ形状だった。
その「手」は、ゆっくりと画面に近づき、まるで葉羽たちを挑発するかのように、画面を叩いた。そして、再びノイズが走り、画面は暗転した。
「今の…何…?」
彩由美は恐怖に震える声で呟いた。葉羽も、この不可解な現象に言葉を失っていた。まるで、共生体が彼らにメッセージを送ってきたかのようだった。
6章
培養液の秘密
異形の「手」が映し出されたモニターの残像が、葉羽の脳裏に焼き付いて離れない。まるで、深淵から何かが這い上がってくるような、底知れぬ恐怖を感じた。そして、その恐怖は、同時に更なる謎を葉羽に突きつけた。共生体は、一体どのようにして壮一郎を殺害したのか? 密室状況、凶器の不在、そして、あの奇妙な足跡と不自然な遺体の状態。全てのピースが繋がらない。
葉羽は、もう一度、壮一郎の研究日誌を読み返した。特に、共生体の培養方法と、使用されている培養液について詳細に書かれた箇所を重点的に調べた。日誌には、培養液の組成式や調合方法が細かく記されていたが、ある一点が葉羽の目に引っかかった。それは、培養液に添加される「成長促進剤」に関する記述だった。
成長促進剤は、共生体の成長を飛躍的に促進させる効果を持つ特殊な薬品。しかし、その成分や作用機序については、詳細な記述が意図的に避けられているように感じた。まるで、壮一郎が何かを隠蔽しようとしているかのように。
「この成長促進剤…何か鍵を握っている気がする」
葉羽は独り言ちるように呟いた。彩由美も、葉羽の真剣な表情を見て、事態の重大さを改めて認識した。
「葉羽君、何か気になることでも?」
「ああ、この培養液に添加されている成長促進剤について調べてみたいんだ。もしかしたら、事件の真相を解き明かすヒントが隠されているかもしれない」
葉羽は、成長促進剤の成分を分析するために、化学に詳しい高校の友人、藍染紅葉(あいぞめ くれは)に協力を依頼することにした。紅葉は、学年で葉羽と一二を争う秀才で、特に化学の分野では突出した才能を持っていた。
葉羽からの電話を受け、紅葉はすぐに常盤邸へと駆けつけた。彼女は、鮮やかな赤毛をポニーテールにまとめ、知的な雰囲気を漂わせる少女だった。彼女は、事件のあらましを聞くと、すぐに分析に取り掛かった。
「これは…かなり特殊な組成ね。市販されている薬品では見たことがないわ」
紅葉は、実験室に残されていた培養液のサンプルを分析装置にかけながら、そう言った。数時間後、紅葉は分析結果を葉羽に報告した。
「分かったわ。この培養液には、未知の化合物が含まれている。この化合物が、共生体の成長を促進する効果を持っていると考えられる」
紅葉が示した分析結果には、複雑な分子構造式が記されていた。葉羽は、その構造式に見覚えがあった。それは、壮一郎の研究日誌の隅に小さく描かれていた図形と酷似していた。壮一郎は、この化合物の存在を意図的に隠蔽していたのだ。
「この化合物は、一体どこで手に入れたんだろうか…?」
葉羽は呟くように言った。紅葉は、パソコンで化合物のデータベースを検索し始めた。
「ちょっと待って…この化合物、過去に一度だけ、ある製薬会社が開発していた記録があるわ。でも、人体への影響が大きすぎるとして、開発は中止されたはずよ」
紅葉が見つけた情報は、葉羽にとって衝撃的なものだった。その製薬会社は、過去に非合法な薬物製造で摘発された、いわくつきの企業だった。そして、その企業の社長は、壮一郎の大学時代の同期だったという情報も入手した。
点と点が繋がり始めた。壮一郎は、非合法な手段で成長促進剤を手に入れ、共生体の研究を進めていた。そして、そのことが、彼の死へと繋がったのだろうか。
葉羽は、事件の真相に少しずつ近づいていることを実感した。しかし同時に、更なる深い闇へと足を踏み入れていることも感じていた。そして、その闇は、彼を容赦なく呑み込もうとしていた。
7章
深淵の追憶
非合法な薬物製造で摘発歴のある製薬会社、そして、壮一郎の大学時代の同期である社長。繋がりが明らかになるにつれ、事件は単なる密室殺人から、巨大な陰謀へと発展していく気配を帯びていた。葉羽は、得られた情報を元に、製薬会社と壮一郎の関係について調べ始めた。
製薬会社の社名は「バイオジェネシス」。表向きは医療用医薬品の開発を行っているが、裏では違法薬物の製造に関わっていたという噂が絶えなかった。社長の名前は葛城隼人(かつらぎ はやと)。壮一郎とは大学時代、同じ研究室に所属しており、優秀な研究者として将来を嘱望されていたという。
葉羽は、葛城隼人の経歴を調べ、彼が過去に遺伝子工学の研究に携わっていたことを突き止めた。そして、壮一郎と共同で研究論文を発表していたことも分かった。彼らの研究テーマは、「生物の遺伝子操作による新薬開発」。まさに、共生体の研究と重なる部分がある。
「やはり、葛城隼人が関わっている可能性が高い…」
葉羽は呟くように言った。彩由美も、葉羽の隣で真剣な表情で情報を確認していた。彼女は、葉羽の推理力に感嘆すると同時に、事件の闇の深さに不安を感じていた。
葉羽は、バイオジェネシス社についてより深く調べるために、会社の登記簿謄本や財務諸表などの資料を入手した。すると、驚くべき事実が判明した。バイオジェネシス社は、数年前に多額の負債を抱えて倒産寸前だった。しかし、その後、謎の出資者から巨額の資金援助を受け、経営を立て直していたのだ。
「謎の出資者…一体誰なんだろう?」
葉羽は眉をひそめた。この出資者が、事件の鍵を握っている可能性が高い。葉羽は、出資者の正体を突き止めようと、さらに調査を進めた。
調査を進めるうちに、葉羽はある人物の名前に行き当たる。それは、葉羽の両親が海外赴任する前に勤めていた研究所の所長、久我山宗一郎(くがやま そういちろう)だった。久我山は、遺伝子工学の分野で世界的に有名な権威であり、葉羽の両親とも親交が深かった。
葉羽は、久我山の名前を見た瞬間、過去の記憶がフラッシュバックした。幼い頃、葉羽は久我山の研究所に遊びに行ったことがある。そこで、彼は偶然、久我山が秘密裏に行っている研究を目撃してしまったのだ。それは、人間の遺伝子を操作し、新たな生命体を創造しようとする、禁断の研究だった。
葉羽は、幼いながらにその研究の恐ろしさを直感的に感じ、恐怖に慄いた。そして、その記憶は、葉羽の心に深い傷跡を残した。葉羽は、その時の記憶を封印していたが、今、再びその記憶が蘇ってきた。
「久我山先生…まさか、あなたが…」
葉羽は、信じられない思いで呟いた。久我山は、葉羽にとって尊敬すべき人物だった。しかし、今、彼は事件の黒幕として、葉羽の前に立ちはだかっている。
葉羽は、葛城隼人と久我山宗一郎の関係を調べ始めた。すると、二人が大学時代からの親友であり、共に遺伝子工学の研究に没頭していたことが分かった。そして、二人は、人間の遺伝子操作による新薬開発という、同じ夢を抱いていた。
しかし、彼らの研究は倫理的な問題から大学を追放され、研究を続けることができなくなった。その後、葛城はバイオジェネシス社を設立し、久我山は海外の研究所に移籍した。そして、二人は、再び秘密裏に研究を再開していたのだ。
葉羽は、事件の真相に近づいていることを確信した。しかし同時に、自らが深い闇へと引きずり込まれていることも感じていた。そして、その闇の深淵には、想像を絶する真実が隠されていた。
8章
悪夢の再来
久我山宗一郎。尊敬すべき恩師であり、両親の親友。その彼が、事件の黒幕である可能性が浮上したことで、葉羽の心は激しく揺さぶられた。幼い頃の記憶、研究所で目撃した禁断の研究、そして、久我山の狂気に満ちた表情。それらが、まるで悪夢のように葉羽の脳裏に蘇ってきた。
真偽を確かめるため、葉羽は久我山の消息を調べ始めた。公式な記録では、久我山は数年前に病死したことになっている。しかし、葉羽は何か腑に落ちないものを感じていた。彼は、久我山の墓があるという霊園を訪れた。
墓石の前に立ち、線香をあげながら、葉羽は複雑な思いに駆られた。尊敬、恐怖、そして、かすかな疑念。様々な感情が入り混じり、彼の心を締め付ける。その時、墓守の老人が葉羽に声をかけた。
「あんた、久我山先生を知ってるのかい?」
葉羽は驚き、老人に会釈をして、自分が久我山と親しかったこと、そして、彼の死の真相を知りたいと思っていることを伝えた。すると、老人は意味深な表情で葉羽を見つめ、こう言った。
「久我山先生は、死んでなんかいないよ」
葉羽は、耳を疑った。死んでいない? どういうことだ? 老人は、久我山が生きている証拠として、ある写真を見せた。それは、最近撮影されたと思われる写真で、そこに写っていたのは、確かに久我山宗一郎だった。彼は、以前よりも窶れた様子だったが、間違いなく生きていた。
「久我山先生は、今もどこかで生きている。そして、きっと、恐ろしいことを企んでいる…」
老人の言葉は、葉羽の疑念を確信に変えた。久我山は生きている。そして、彼は壮一郎の死、そして共生体の研究に深く関わっている。
葉羽は、霊園を後にし、自宅へと戻った。頭の中は、様々な情報と疑問で混乱していた。久我山はなぜ生きていることを隠しているのか? 壮一郎の死と、彼の研究にはどのような関係があるのか? そして、あの脅迫メールの送り主は誰なのか?
葉羽は、自室の書斎で一人、考えを整理しようとした。窓の外は既に暗くなり、不気味な静寂が辺りを包んでいた。その時、葉羽は異変に気付いた。書斎の本棚が、わずかにずれている。そして、床には、見覚えのある足跡があった。三本指の、爬虫類のような足跡。共生体の足跡だ。
「まさか…ここにまで…?」
葉羽は、恐怖に慄いた。共生体は、既に葉羽の自宅にまで侵入していたのだ。葉羽は、部屋の中を警戒しながら見回したが、共生体の姿はどこにも見当たらない。しかし、葉羽は、自分が監視されていることを感じていた。まるで、深淵から何かが見つめているかのような、底知れぬ恐怖を感じた。
その時、葉羽の目に、机の上に置かれたメモ帳が留まった。そこには、赤いインクで書かれたメッセージが残されていた。
「次は、お前の番だ」
短い言葉だったが、そこには、葉羽の命を狙う、強い殺意が込められていた。葉羽は、息を呑んだ。悪夢は、まだ終わっていなかった。いや、むしろ、これからが始まりだった。
9章
深層心理の迷路
「次は、お前の番だ」――赤いインクで書かれた脅迫のメッセージは、葉羽の精神を深く抉る鋭利な刃のようだった。共生体は、既に葉羽のすぐ側まで迫っていた。見えない恐怖が、彼をじわじわと包み込んでいく。
冷静さを保とうと努めるも、恐怖は理性を蝕み、葉羽の精神は徐々に不安定になっていく。彼は不眠に悩まされ、悪夢にうなされるようになった。夢の中では、常盤壮一郎の歪んだ遺体、異形の「手」が映るモニター、そして、三本指の足跡が、まるで彼を嘲笑うかのように、繰り返し現れる。
ある夜、葉羽は particularly vivid な夢を見た。彼は、見覚えのない薄暗い空間にいた。周囲には、得体の知れない実験器具や、ホルマリン漬けにされた奇妙な生物標本が並んでいる。まるで、常盤邸の秘密の研究室のようだった。
その時、葉羽の背後から、ぬるりとした感触が彼を包み込んだ。振り返ると、そこには、巨大なアメーバのような生物がいた。それは、蠢くように形を変えながら、葉羽にゆっくりと近づいてくる。そして、その中心部には、人間の胎児のようなものが浮かび上がっていた。共生体だ。
共生体は、葉羽に語りかけてきた。その声は、まるで彼の心の奥底から響いてくるようだった。
「お前は…我々を理解することはできない…」
共生体の声は、悲しみと怒りに満ちていた。それは、まるで人間に理解されない苦しみを訴えているかのようだった。葉羽は、恐怖に竦み上がりながらも、共生体の言葉に耳を傾けた。
「我々は…ただ、生き延びようとしているだけだ…人間に利用され、捨てられるだけの存在…我々は…そんな運命を拒否する…」
共生体の言葉は、葉羽の心に深く突き刺さった。彼は、共生体が人間によって創り出された、悲劇的な存在であることを理解した。そして、共生体が人間に対して抱く憎しみと怒りも、理解することができた。
夢の中で、葉羽は共生体と精神的な繋がりを感じ始めた。まるで、共生体の意識が、葉羽の深層心理へと入り込んできたかのようだった。葉羽は、共生体の記憶、感情、そして、思考を読み取ることができた。
その時、葉羽は、常盤壮一郎の死の瞬間を目撃した。それは、まるで自分が壮一郎の体内にいるかのような、生々しい光景だった。壮一郎は、共生体によって内側から破壊され、苦しみ悶えながら息絶えた。そして、共生体は、壮一郎の肉体から抜け出し、新たな宿主を探し始めた。
葉羽は、目を覚ました。全身は冷汗でびっしょりだった。夢とは思えないほどの、強烈な体験だった。彼は、共生体との精神的な繋がりを、現実世界でも感じることができた。まるで、共生体が彼の深層心理に巣食っているかのようだった。
葉羽は、この共生体との繋がりを利用して、事件の真相を解明できるかもしれないと考えた。しかし同時に、共生体に精神を支配される危険性も孕んでいることを理解していた。葉羽は、自ら深層心理の迷路へと足を踏み入れようとしていた。そして、その迷路の出口には、何が待ち受けているのだろうか。
10章
反撃の狼煙
悪夢のような体験を通して、葉羽は共生体との奇妙な繋がりを得た。まるで、深淵を覗き込むことで、深淵からもまた覗き込まれているかのような、不安定な共存状態。しかし、葉羽はこの危険な繋がりを、事件解決の糸口へと変えようと決意する。
共生体との精神的なリンクを通して得た断片的な記憶、感情、思考。それらは混沌としており、そのままでは意味を成さない。葉羽は、まるでジグソーパズルのピースを組み立てるように、一つずつ丁寧に情報を整理し、分析していく。
まず、彼が確信したのは、常盤壮一郎の死は、事故でも自殺でもなく、他殺であるということ。そして、殺害に使用されたのは、紛れもなく共生体であるということ。しかし、密室状況、凶器の不在、これらの矛盾をどのように説明するのか。
葉羽は、共生体の特性、成長促進剤の作用、そして、壮一郎の研究日誌に記されていた情報を組み合わせ、一つの仮説を立てた。
「壮一郎は、自ら共生体を体内に注入した。成長促進剤を使って共生体の成長を促進し、自らの肉体を実験台にしたのだ。しかし、共生体の制御に失敗し、殺害された…」
葉羽は、自分の推理を彩由美に説明した。彩由美は、葉羽の推理に驚きながらも、その論理的な整合性に納得した。
「でも、葉羽君。もしそうだとしたら、誰が成長促進剤を壮一郎さんに渡したの? 壮一郎さんが自分で注入したのなら、他殺にはならないんじゃないかしら?」
彩由美の疑問は、核心を突いていた。葉羽も、その点について深く考えていた。
「確かに、壮一郎が自ら共生体を注入した可能性は高い。しかし、成長促進剤は、常盤さん自身では調合できない特殊な薬品だったはずだ。誰かが、壮一郎に成長促進剤を提供し、共生体を注入するように仕向けたのではないか?」
葉羽は、共生体との精神的な繋がりを再び探り、新たな情報を得ようとした。その時、彼の脳裏に、ある人物の姿が浮かび上がった。葛城隼人。バイオジェネシス社の社長であり、壮一郎の大学時代の同期。そして、非合法な手段で成長促進剤を製造していた張本人。
「葛城隼人…奴が、黒幕か…」
葉羽は確信に満ちた声で呟いた。全ての証拠が、葛城を犯人として指し示していた。葉羽は、葛城を罠に嵌める計画を立て始めた。彼は、警察に協力を要請し、葛城を常盤邸へと誘い出す作戦を実行することにした。
葉羽は、葛城に匿名のメールを送り、常盤邸の秘密の研究室に、壮一郎の研究に関する重要な情報が隠されていることを伝えた。葛城は、共生体の研究成果を独占したいという欲望に駆られ、罠だと知りながらも常盤邸へと向かうだろう。
葉羽は、常盤邸に警察官を配置し、葛城を逮捕する準備を整えた。そして、彼は彩由美と共に、秘密の研究室で葛城を待ち構えた。
「葉羽君、本当に大丈夫なの? 危険な目に遭うかもしれないわ」
彩由美は、不安そうに葉羽に尋ねた。葉羽は、彼女の手に触れ、優しく微笑みかけた。
「大丈夫だ、彩由美。俺が必ず守る」
葉羽の言葉は、彩由美の不安を少しだけ和らげてくれた。しかし、葉羽自身も、この作戦が成功するかどうか確信は持てなかった。彼は、深淵へと続く暗い道へと足を踏み入れようとしていた。そして、その先に何が待ち受けているのか、誰にも分からなかった。
11章
偽りの真実
秘密の研究室に仕掛けられた罠。葉羽は、息を潜め、葛城隼人の登場を待っていた。彩由美は、不安げな表情で葉羽の隣に寄り添っている。研究室の入り口に設置された監視カメラの映像が、モニターに映し出されている。
間もなく、モニターに葛城の姿が映った。彼は、辺りを警戒しながら、研究室へと入ってきた。葉羽の予想通り、彼は罠だと知りながらも、共生体の研究成果を手に入れるため、危険を冒してやってきたのだ。
葛城が研究室の中央に到達した瞬間、葉羽は隠れていた場所から飛び出し、彼に声をかけた。
「葛城隼人、貴方を逮捕する!」
突然の登場に、葛城は驚き、後ずさりした。彼は、手に持っていた鞄を落とし、中身が床に散らばった。それは、共生体の成長促進剤の入ったアンプルだった。
「くっ…なぜ、俺がここにいると…?」
葛城は、動揺を隠せない様子で葉羽を睨みつけた。葉羽は、葛城に掴みかかり、彼を床に押さえつけた。
「貴様が、常盤壮一郎を殺害したんだな? 証拠は全て揃っている!」
葉羽は、勝利を確信した。しかし、その直後、予期せぬ出来事が起こった。研究室の扉が勢いよく開き、数人の警察官が突入してきた。彼らは、葉羽ではなく、葛城に銃口を向けた。
「葛城隼人、貴方を殺人未遂の容疑で逮捕する!」
葉羽は、何が起こったのか理解できなかった。なぜ、警察は自分を逮捕するのではなく、葛城を逮捕しようとしているのか? 混乱する葉羽に、一人の刑事が説明した。
「神藤君、すまない。我々は、葛城容疑者が君を殺害しようとしていたところを目撃した。君が仕掛けた罠は、逆に葛城容疑者に利用されてしまったようだ」
刑事は、葉羽に手錠をかけようとした。葉羽は、必死に抵抗した。
「違います! 私が罠を仕掛けたんです! 葛城が犯人なんです!」
しかし、葉羽の言葉は誰にも届かなかった。警察は、葉羽を殺人未遂の容疑で連行しようとした。その時、彩由美が叫んだ。
「待ってください! 葉羽君は犯人じゃない! 彼は真実を明らかにしようとしていたんです!」
彩由美の言葉に、刑事は一瞬動きを止めた。しかし、すぐに首を横に振った。
「お嬢さん、気持ちは分かるが、証拠は全て葛城容疑者を指し示している。神藤君には、後で詳しい事情を説明してもらう」
葉羽は、絶望的な気持ちで彩由美を見つめた。彼の仕掛けた罠は、全て裏目に出てしまった。そして、彼は濡れ衣を着せられ、逮捕されようとしていた。
その時、葉羽の脳裏に、ある言葉が閃いた。それは、壮一郎の研究日誌に記されていた言葉だった。「共生体は、宿主の記憶や人格までも吸収し、自らの進化に利用する」。
もし、葛城が共生体に寄生されていたとしたら…? 葛城の記憶や人格が共生体によって操作され、葉羽を罠に嵌めるように仕向けられたとしたら…?
葉羽は、全てを理解した。彼は、巨大な陰謀に巻き込まれていたのだ。そして、その陰謀の黒幕は、まだ他にいた。
その時、研究室の奥から、一人の男が現れた。それは、死んだはずの久我山宗一郎だった。
12章
異形の啓示
死んだはずの久我山宗一郎。彼の登場は、葉羽にとって衝撃的な事実以上に、底を突くような絶望をもたらした。全ての筋書きは、この男の手によって描かれていたのだ。
「久我山先生…なぜ…?」
葉羽は、絞り出すような声で問いかけた。久我山は、不気味な笑みを浮かべながら、葉羽に近づいてきた。
「葉羽君、君はもうすぐ、真実を知ることになる」
久我山の声は、冷たく、感情が欠落していた。まるで、人間ではなく、何か別の存在に支配されているかのようだった。
「真実…?」
葉羽は、混乱していた。何が真実で、何が嘘なのか。彼は、もはや何も信じることができなくなっていた。
久我山は、葉羽に近づき、彼の耳元で囁いた。
「共生体は、我々が創造した、究極の生命体だ。彼らは、人間の限界を超え、進化の頂点に立つ存在となるだろう」
久我山の言葉は、葉羽に戦慄をもたらした。彼は、久我山の真の目的を知った。それは、共生体を利用して、人類を支配することだった。
「常盤壮一郎は、共生体の制御に失敗し、殺された。そして、葛城隼人は、我々の計画に協力するために、自ら共生体に寄生された。彼は、君を罠に嵌めるための駒に過ぎない」
久我山の言葉は、全てを説明していた。壮一郎の死、葛城の裏切り、そして、葉羽が嵌められた罠。全ては、久我山の計画の一部だったのだ。
「なぜ…そんなことを…?」
葉羽は、理解できなかった。なぜ、久我山は人類を滅ぼそうとしているのか? なぜ、共生体を利用しようとしているのか?
「人間は、愚かで脆い存在だ。彼らは、自らの欲望のために争い、破壊を繰り返す。共生体は、そんな人間に取って代わる、新たな支配者となるだろう」
久我山の言葉は、狂気に満ちていた。彼は、もはや人間としての理性や倫理を失い、共生体への信仰とも言える歪んだ思想に囚われていた。
「そして、葉羽君。君もまた、我々の計画の一部となるのだ」
久我山は、葉羽の腕を掴み、彼に何かを注入しようとした。それは、共生体の入ったアンプルだった。
「やめろ!」
彩由美が叫び、久我山に飛びかかった。しかし、久我山は彩由美を突き飛ばし、再び葉羽に襲いかかった。
葉羽は、必死に抵抗したが、久我山の力は強かった。彼は、アンプルを葉羽の腕に突き刺した。
葉羽の体内に、共生体が侵入していくのを感じた。彼の意識は、徐々に薄れていく。彼は、深淵へと引きずり込まれていくような感覚に陥った。
その時、葉羽の脳裏に、ある映像がフラッシュバックした。それは、幼い頃に久我山の研究所で目撃した、禁断の研究の光景だった。そして、その映像の中に、ある重要な手がかりが隠されていた。
葉羽は、最後の力を振り絞り、久我山に抵抗した。彼は、共生体の支配から逃れ、自らの意識を取り戻そうと必死にもがいた。
そして、彼は叫んだ。
「俺は…絶対に…屈しない…!」
13章
絶望の淵
共生体が葉羽の体内に侵入する。燃えるような熱と共に、全身を蝕むような痛みが走る。意識が朦朧とする中、葉羽は深淵へと落ちていくような感覚に囚われる。久我山の高笑い、彩由美の悲鳴、全てが歪み、遠ざかっていく。
共生体は、葉羽の細胞を侵食し、神経系を乗っ取ろうとする。抵抗すればするほど、痛みは増していく。まるで、体の中から引き裂かれるような感覚だ。葉羽は、意識を失う寸前、幼い頃の記憶を鮮明に思い出した。久我山の研究所で目撃した、禁断の研究。そして、そこで見た、ある「装置」。
それは、共生体の活動を抑制する装置だった。久我山は、共生体の危険性を認識しており、制御するための装置を開発していたのだ。その装置こそが、葉羽が共生体から逃れるための唯一の希望だった。
しかし、その装置はどこにあるのか? 葉羽は、必死に記憶を辿ろうとするが、意識はどんどん薄れていく。彼の視界は暗転し、全てが静寂に包まれた。
どれだけの時間が経っただろうか。葉羽は、微かな意識を取り戻した。しかし、体は全く動かない。まるで、深い海の底に沈んでいるかのような、重苦しい感覚に襲われる。彼は、共生体に寄生され、意識を支配されかけていた。
その時、葉羽の耳に、彩由美の声が聞こえた。
「葉羽君! しっかりして!」
彩由美の声は、葉羽の意識を繋ぎ止める、細い糸のようだった。彼は、必死に意識を集中し、彩由美の声に耳を澄ませた。
「葉羽君、諦めないで! あなたなら、きっと…!」
彩由美の言葉は、葉羽の心に小さな光を灯した。彼は、共生体に抵抗する力を振り絞り、意識を取り戻そうとあがいた。
その時、葉羽の脳裏に、再び幼い頃の記憶がフラッシュバックした。久我山の研究所、禁断の研究、そして、共生体抑制装置。葉羽は、装置の場所を思い出した。それは、研究所の地下深くに隠された、秘密の保管庫だった。
葉羽は、共生体との精神的な繋がりを利用し、その情報を彩由美に伝えた。
「彩由美…研究所…地下…保管庫…装置…」
葉羽の言葉は、途切れ途切れで、ほとんど聞き取れない。しかし、彩由美は、彼の必死の訴えを理解した。
「分かったわ、葉羽君! 私、必ず装置を見つけてくる!」
彩由美は、決意に満ちた表情で、研究室を飛び出していった。葉羽は、彩由美に全ての希望を託した。しかし、彼は、深い絶望の淵に立たされていた。共生体は、彼の肉体と精神を蝕み続け、時間は刻一刻と過ぎ去っていく。
彼は、生き残ることができるのだろうか? そして、彩由美は、無事に装置を見つけることができるのだろうか?
14章
反転する真理
共生体に蝕まれる意識の中、葉羽は必死に抗い続けていた。時間はまるで粘液のように伸び、一秒が永遠のように感じられる。彩由美が装置を見つけ、戻ってくるまでの間、彼はただひたすらに共生体の侵食に耐え続けなければならなかった。
苦痛と戦いながら、葉羽はこれまで得てきた情報を何度も反芻していた。壮一郎の死、葛城の裏切り、久我山の狂気、そして、共生体との奇妙な繋がり。一つ一つのピースは揃っているはずなのに、どうしても全体像が掴めない。まるで、重要なピースが欠けているかのように。
その時、葉羽の脳裏に、ある疑問が閃いた。もし、葛城が共生体に寄生されていたとしたら、なぜ彼は葉羽を殺そうとしたのか? 共生体は、宿主の記憶や人格を吸収する。つまり、葛城の行動は、共生体の意志によるもののはずだ。しかし、共生体の目的は、人類の支配であり、葉羽を殺すことは、その目的に合致しない。
「何かが違う…何かがおかしい…」
葉羽は、意識が朦朧とする中で、必死に考え続けた。その時、彼の脳裏に、ある人物の言葉が蘇ってきた。それは、第3章で会った花染朔太郎の言葉だった。
「壮一郎は、常に常識の枠を超えた発想をする男だった…」
常識の枠を超えた発想。葉羽は、ハッとした。彼は、これまで常識にとらわれすぎていた。共生体の目的は、本当に人類の支配だけなのだろうか? もしかしたら、もっと別の目的があるのではないか?
葉羽は、共生体との精神的な繋がりを再び探り、その深層心理を読み取ろうとした。その時、彼は驚くべき真実に辿り着いた。共生体の真の目的は、人類の支配ではなく、「進化」だった。
共生体は、様々な生物の遺伝子を吸収し、自らを進化させ続けている。そして、人間は、共生体にとって進化のための「 stepping stone 」に過ぎない。壮一郎は、その真実に気付き、共生体の研究を止めようとしていた。しかし、久我山は、共生体を利用して自らの野望を実現しようとしていた。
葛城は、共生体に寄生されたのではなく、自らの意志で共生体と融合することを選んだのだ。彼は、共生体を通して進化を遂げ、新たな生命体へと生まれ変わろうとしていた。そして、葉羽を殺そうとしたのは、共生体ではなく、葛城自身の意志だった。彼は、葉羽を共生体の進化のための生贄にしようとしていたのだ。
全てが繋がった。葉羽は、事件の真相を完全に理解した。そして、彼は反撃の狼煙を上げた。
「久我山…俺は、貴様の野望を阻止する!」
葉羽は、共生体の力を利用し、自らの肉体を制御することに成功した。彼は、再び立ち上がり、久我山に立ち向かう。
「無駄な抵抗だ、葉羽君。君は、既に共生体に寄生されている。もはや、我々の敵ではない」
久我山は、不気味な笑みを浮かべながら、葉羽に迫ってきた。しかし、葉羽は、共生体の力を制御し、反撃に出た。
戦いは、壮絶なものだった。葉羽は、共生体の力を使って、久我山を圧倒する。久我山は、予想外の葉羽の反撃に驚き、怯んだ。
その時、彩由美が戻ってきた。彼女は、共生体抑制装置を手に、葉羽の元へと駆け寄ってきた。
15章
深淵の支配者
彩由美が手にした共生体抑制装置は、拳銃のような形状をしていた。それは、壮一郎が密かに開発し、久我山から隠匿していた切り札だったのだ。彩由美は息を切らし、装置を葉羽に差し出した。
「葉羽君、これを使って!」
葉羽は装置を受け取ると、葛城へと向き直った。葛城の顔は蒼白く、額には脂汗が浮かんでいる。共生体との融合は、彼に想像以上の負担をかけていたようだ。
「葛城、全て終わりだ」
葉羽は抑制装置を構え、葛城に照準を合わせた。葛城は、嘲笑を浮かべながら、葉羽を挑発した。
「無駄だ、葉羽。お前は既に共生体に侵食されている。俺たちと同じ存在になるのだ」
葛城の言葉に、葉羽の心は揺らぐ。確かに、共生体の力は魅力的だった。圧倒的な力、進化の可能性。しかし、葉羽はそれを拒絶した。彼は、人間としての尊厳、そして、彩由美との絆を守るために、共生体と戦うことを選んだのだ。
葉羽は、ためらうことなく引き金を引いた。抑制装置から発射されたエネルギー波が、葛城を直撃する。葛城は悲鳴を上げ、床に崩れ落ちた。彼の体から、共生体が煙のように抜け出し、消滅していく。
葛城は、事切れる寸前、葉羽に何かを伝えようとした。
「葉羽…お前は…間違っている…人間は…進化するべきなのだ…」
葛城の言葉は、葉羽の心に暗い影を落とした。彼は、葛城の選択を理解できなかった。しかし、同時に、彼の苦しみも理解できた。
葛城の死体を見つめながら、葉羽は久我山へと視線を移した。久我山は、驚愕と憎悪に満ちた目で葉羽を見つめていた。
「貴様…よくも…」
久我山は、最後の切り札として、自らの体内に共生体を注入した。彼の体は異様な形に変化し、巨大な怪物へと変貌していく。
「私は…深淵の支配者となる!」
久我山の叫び声が、研究室に響き渡る。彼は、共生体の力を完全に制御し、圧倒的な力で葉羽に襲いかかった。
葉羽と彩由美は、力を合わせて久我山に立ち向かう。しかし、共生体と融合した久我山の力は強大で、葉羽たちは防戦一方だった。
研究室は、久我山の攻撃によって破壊されていく。天井が崩れ落ち、壁が砕け散る。葉羽たちは、瓦礫の山の中で、絶体絶命の危機に陥っていた。
16章
崩壊の序曲
秘密研究室は、共生体と融合した久我山によって、まさに崩壊の寸前だった。天井からはコンクリートの塊が崩落し、壁には巨大な亀裂が走っている。逃げ場はどこにもない。葉羽と彩由美は、瓦礫の山に身を潜め、久我山の猛攻を凌いでいた。
久我山の姿は、もはや人間とは呼べない異形のものと化していた。皮膚は青白く変色し、体からは無数の触手が生えている。目は赤く輝き、獣のような唸り声を上げている。共生体の力は、彼を完全に支配し、破壊衝動の塊へと変えてしまっていた。
「無駄な抵抗はやめろ、葉羽! お前も我々と同じ存在になるのだ!」
久我山の咆哮が、崩壊していく研究室に響き渡る。葉羽は、抑制装置を構え、久我山に照準を合わせるが、彼の動きは速すぎて捉えきれない。
「くそっ…このままでは…!」
葉羽は、焦燥感に駆られていた。このままでは、研究室ごと潰されてしまう。そして、共生体の脅威は、この館の外へと広がっていくことになるだろう。
その時、葉羽は、壮一郎の研究日誌に記されていたある記述を思い出した。「共生体は、高周波に弱い」。壮一郎は、共生体を制御するために、高周波発生装置を開発していたのだ。
「彩由美! この研究室に、高周波発生装置はないか!?」
葉羽は、彩由美に叫んだ。彩由美は、瓦礫の山の中を探し回り、ついに装置を発見した。それは、小型の装置で、スイッチを入れるだけで高周波を発生させることができる。
「葉羽君、これよ!」
彩由美は、装置を葉羽に手渡した。葉羽は、装置を受け取ると、すぐにスイッチを入れた。装置から、高周波が放射される。
高周波を浴びた久我山は、苦しみ始め、動きが鈍くなった。彼の体から、共生体が煙のように抜け出し、消滅していく。久我山の体は、元の姿に戻り、床に倒れ込んだ。
「私は…間違っていたのか…?」
久我山は、弱々しい声で呟いた。彼は、自らの行いを悔いているようだった。葉羽は、久我山に近づき、彼の肩に手を置いた。
「久我山先生、もう手遅れではありません。今からでも、やり直せます」
葉羽の言葉に、久我山は静かに涙を流した。彼は、自らの罪を償うために、警察に自首することを決意した。
しかし、崩壊は止まらなかった。研究室は、今にも完全に崩れ落ちようとしていた。葉羽と彩由美は、脱出路を探し始めた。
その時、葉羽は、床に開いた穴を発見した。それは、地下迷宮へと続く、隠し通路だった。
「彩由美、こっちだ!」
葉羽は、彩由美の手を引き、隠し通路へと飛び込んだ。
17章
再生のレクイエム
隠し通路は、長く暗いトンネルだった。葉羽は彩由美の手を握りしめ、懐中電灯の光を頼りに、出口を探して進んだ。背後からは、常盤邸の崩壊する音が響いてくる。まるで、深淵が彼らを追いかけてくるかのようだった。
「大丈夫、彩由美。もうすぐ出口だ」
葉羽は、彩由美を励ますように言った。彩由美は、恐怖に震えながらも、葉羽の手を強く握り返した。
しばらく進むと、前方に光が見えた。出口だ。二人は、光に向かって走り出した。
トンネルを抜けると、そこは常盤邸の裏庭だった。夜空には、満天の星が輝いている。葉羽と彩由美は、深呼吸をして、新鮮な夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼らは、生き延びた。そして、共生体の脅威は、完全に消滅した。
後日、久我山は警察に自首し、全ての罪を認めた。彼は、共生体の研究と、壮一郎の殺害について詳細に語り、事件の真相が明らかになった。葛城の遺体も発見され、彼の共生体との融合の事実も確認された。
事件は解決し、葉羽と彩由美は、再び平穏な日常へと戻った。しかし、この事件は、彼らの心に深い傷跡を残した。彼らは、人間の愚かさ、そして、科学の進歩の危険性を改めて認識した。
事件から数日後、葉羽は自宅の書斎で、再び推理小説を読み耽っていた。彼は、事件の記憶を振り払うように、ページをめくっていく。
その時、彼の目に、一冊の本が留まった。それは、壮一郎が書き残した研究日誌だった。葉羽は、日誌を手に取り、ページをめくった。
そこには、共生体に関する新たな情報が記されていた。共生体は、完全に消滅したわけではなく、今もどこかで生き続けている可能性があるというのだ。
葉羽は、息を呑んだ。事件は、まだ終わっていなかった。深淵は、今もなお、彼らを覗き込んでいる。
葉羽は、決意を新たにした。彼は、再び立ち上がり、書斎の窓を開けた。夜空には、満天の星が輝いている。
「俺は…真実を追い求め続ける…」
葉羽は、静かに呟いた。彼の瞳には、知的な光が宿っていた。そして、彼の心には、新たな謎への挑戦心が燃えていた。
エピローグ
事件から一年後、葉羽は高校を卒業し、大学に進学した。彼は、法学部で法律を学び、将来は弁護士になることを目指していた。彩由美も、同じ大学に進学し、心理学を専攻していた。
二人は、相変わらず仲が良く、休日は一緒に図書館で過ごしたり、映画を見に行ったりしていた。
ある日、葉羽は図書館で、一冊の古書を見つけた。それは、古代生物に関する書物だった。葉羽は、何かに導かれるように、その本を開いた。
そこには、共生体によく似た生物の記述があった。それは、太古の昔から存在し、様々な生物に寄生して進化を遂げてきた生物だという。
葉羽は、息を呑んだ。共生体の起源は、壮一郎の研究よりもはるかに古いものだったのだ。そして、共生体は、今もなお、世界のどこかで生き続けているかもしれない。
葉羽は、再び深淵を覗き込んでしまったことを悟った。そして、彼は、再び立ち上がり、図書館を後にした。
彼の心には、新たな謎への挑戦心が燃えていた。
(完)