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兄弟航路
2024年9月25日 20:00
お腹がすいているのに、ご飯を食べないで帰ることにしたのは、仕事帰りのお父さんと顔を合わせたくなかったから。「お父さんには、まだ言わないでね」「別にいいじゃない。おめでたいことなのに」 さっき喜んでくれたお母さんは、ちょっぴり呆れ顔だった。 薄暗くなった外は、異常な残暑が立ちのいて、秋らしい空気が心地よかった。遠回りして駅に向かうと、大きな公民館の前にある、インドカレーのお店に目が留まっ
乙川アヤト
2024年9月30日 10:15
昔から、【ハコ】を削るのは好きだった。【ハコ】は白く、表面はザラザラしていて、一面の大きさが文庫本ほどの立方体。僕はまずそれを支給されると、角で手を切らないように気をつけて、面に余計な汚れがついていないかを点検する。 といっても、なにかが付着していたことなんかないし、仮に汚れがついていたとしても、ヤスリで削ればいいだけの話なのだけど。 点検が終わるとその一抱えもある立方体を分けていく
2024年9月2日 11:41
私の父の実家は田舎のお屋敷で、ときどきいろいろな生き物が迷い込むのだが、【ニエモドキ】のときはちょっとした騒ぎになった。 それは中学にあがったばかりの春、週末に両親に連れられて、田舎に帰郷したときのことだった。 お屋敷はとことん広く、表は畑で、裏に山。その山も先祖からの土地で、竹林があり、よくたけのこを鍬で掘るのに連れて行ってもらった。私が【ニエモドキ】という言葉を最初に聞いたのは、たし
森葉芦日(もり・はるひ)
2023年11月3日 17:14
「えと、僕の頬に当たってる、この拳は何?」「だーかーらー、聞いてなかったのかよ」「うん、ごめん」夕方になると、最近行くのを辞めた塾のことを考えしまう。勉強も手についていない。「インタビューパンチマンだよ」「ああ、そんな話してたね」そうそう、最近、僕らが住む辺鄙な街で世間を賑わせている連続事件の話だった。てっちゃんは、テレビのリポーターみたいに背筋をシャンとして、僕にエ
2024年6月8日 12:00
当方は、毎年六月八日に、“進水記念日” と題する文章を航海している。本稿は、四回目である。 読者諸賢の中に、毎年恒例と思われる方がいらっしゃれば、我が兄弟航路のファンとして認定いたしたい。過去三回をご存知でない方も、いやいやファンですよ――とおっしゃっていただけるなら、丸四年の旅路を共に祝いたい。 旗揚げから今日に至るまで、兄弟航路のファンは、最低一人、必ずいる。その一人とは、当方の、要す
2024年3月24日 20:00
愛とは、見捨てないことだと、誰かが言ったそうです。けれど、見捨てるべき人を見捨てられない場合は、愛と呼べるのでしょうか。 結局、私は何度裏切られようとも、母を見捨てられませんでした。 六年ぶりの再会は、歌舞伎町で働いていた頃です。 桜が咲き始めた三月の夜、どこで噂を嗅ぎつけたのか、母は客として現れました。金回りの良さそうな身なりで、目立つ黄色いジャケットを着ていましたが、瞬時に誰か分から
2024年1月21日 20:00
雪化粧の庭は、取り澄ましたような顔をしていた。 母は、予定が書き込まれた壁掛けのカレンダーを指でなぞり、はたと思い出したらしい美容室に電話を入れた。 「俺が切ろうか?」 柄にもない提案をすると、母は照れ臭そうに微笑んだ。 板の間の窓辺に新聞紙を広げ、雪見席の美容室を即席でこしらえた。遠方の山並みは、どんよりと垂れ込める雲に閉ざされていた。 母を椅子に座らせると、痩せ細った首に大き
2020年7月24日 06:45
弟よ、そして読者諸賢よ、私は大海原に憧れを抱く。緩やかな追い風を浴びながら、青白く光る水平線の彼方へ、好奇心の赴く儘に舟を漕ぎ出してみたい。山に囲まれた甲府(山梨県)の、昨日を焼き増したような景色から抜け出して、地図も持たずに旅をしたい。加工された電子的な情報ではなく、そこはかとない音や香も感じ取り、異世界の只中に浸りたい。 時には舟の上に寝そべり、波のまにまに時間が贅沢に流れるだろう。いつし
2023年10月25日 20:00
法学部二年の真司は、清涼な空気にいざなわれ、早朝のランニングを日課に定めた。食欲の秋にかまけた挙句、怠惰な体になった去年を反省してのことだ。 タオルを首に巻き、ウエストポーチを腰に巻く。両親と年の離れた弟が、戸建ての二階でまだ寝ているうちに発つ。イヤフォンで軽快な音楽を聞きながら、毎朝ほぼ同じルートを颯爽と走る。高校時代の彼は、バスケットボールの選手だった。 閑散とした道に、様々な枯れ葉がぽ
2023年7月22日 20:00
夏のおびただしい日差しを避け、賑わう学食で特盛カレーを食べていると、嫌な話を小耳に挟んだ。「シングルマザーの再婚率は、子供の性別によって五倍の差があるらしい」 ちらりと振り返ったところ、男が女に語っていた。五倍は、流石に盛っていると思った。「どっちが再婚しやすいの?」「そりゃあ、女の子でしょう」「ああ・・・なんか、気持ち悪いね」 生じた偏見は、致し方ないのかもしれない。性的虐待に関す