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「食品安全文化」ー心理社会的リスクの観点から
前回の記事(「食品安全文化」醸成〜労働安全分野とともに)でも、少し予告させていただいたが、今回の記事では、働く人のメンタルヘルスに関する指針として初めての国際規格であるISO45003:2021にて整理されている、職場における心理的な健康及び安全に関する「心理社会的リスクの管理のための指針」を、WHO(世界保健機関)のガイドラインとともに紹介させていただきたい。
心理社会的リスクについては、PSR=psychosocial risksとも呼ばれ、労働安全衛生分野で注目されている概念であり、世界保健機関(WHO)は、WHOはじめてとなる科学的根拠に基づく「職場のメンタルヘルス対策ガイドライン」を2022年9月28日に公表した。また、EUにおいても、PSRに関して、EU指令the Framework Directive on Safety and Health at Work (89/391/EEC)の中で心理社会的リスクを明確にした上で、加盟国による討議が進められている。そういったなか、国際規格として、2021年に初めて発行されたのが、このISO45003:2021である。
尚、規格の一部引用にあたり、ISO(国際標準化機構)の場で、当文書の策定をリードされたBSI(英国規格協会)の方々とは情報交換をさせていただいているものの、正式な許可をISOから頂戴しているわけではないことをご了承いただきたい。また、皆さんにわかっていただきやすいような表現を目指して、日本規格協会訳と異なる訳を当てはめている場合があることをご了承いただきたい。
最終的に意図するところは、安全文化の醸成を目指す組織を始め、従業者のより良いワークライフを支援しようとしている企業に、この規格のことや、その概念の一部を紹介することによって、その有用性をご理解・ご活用いただき、その組織の心理社会的リスクの管理策が強化され、ひいては、日本社会が、その構成する人々を大事にする「だれ一人取り残されない」サステナブルな社会として、より良くなれればと考えるところによる。
また、2024年4月 シンガポールで開催されたGFSI(Global Food Safety Initiative)世界会議において、Dr. Lone Jespersen(食品安全文化に関するGFSI テクニカル・ワーキング・グループの議長)も、NEOGEN主催の座談会のなかで、「食品安全文化」の文脈において、「食品安全文化」ではなく、「心理社会的リスク」という用語を使用していた。
これら労働安全衛生分野の世界的動きが、世界の「食品安全文化醸成」活動に影響を与えていると言える。
現在、企業としても、社会としても対応が避けられない従業者のメンタルヘルスの問題に対応するための概念である心理社会的リスクに対応する管理策を用いて、食品安全文化醸成のための一部の領域であり、かつ、重要部分である従業者の問題に関しては、より深く取り組もうという動きは世界的にもあるということといえる。
まず、前提として、「食品安全文化醸成」と「職場における心理的な健康及び安全」の関係性を明確にするために、前回の記事から整理をし始めた、私が考える「食品安全文化醸成の7つの領域要素」を、以下のように、まとめてみた。
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今回取り上げる、ISO 45003:2021に記述された職場における心理的な健康及び安全面に関する事項は、上記・図1及び表1上で赤く記した「⑥安全重視の環境ーソフト面」に該当する事項となる。
職場における心理的な健康及び安全は、食品安全文化を醸成させるためには不可欠な要素であり、7つの領域要素の一つである「安全重視の環境ーソフト面」の領域として取り扱うことが期待されている。
また、同規格では、具体的にどのような管理策をとって安全重視の環境を実現させればよいか、どのように心理社会的リスクを低減させればよいかという点について、心理社会的リスク発生のもととなる危険源(ハザード)の例や心理社会的リスク管理措置の例が取り上げられている。そのため、食品安全文化を醸成する企業にとっては、その危険源(ハザード)や心理社会的リスク管理措置の例を参照することにより、安全重視の環境管理策を設定しやすいと考える。
当規格では、以下の2つの用語のみが定義されている。
心理社会的リスク:労働に関連する心理社会的性質の危険源へのばく露の発生の起こりやすさ並びにこれらの危険源によって生じる可能性がある負傷及び疾病の重大性の組合せ
注釈1:心理社会的性質の危険源には、作業の編成、職場の社会的要因、労働環境、設備及び危険な作業の側面が含まれる。
職場でのウェルビーイング:仕事に対して働く人の身体的、精神的、社会的及び認知的ニーズ及び期待を満たすこと
注釈1:職場でのウェルビーイングはまた職場の外での生活の質にも寄与し得る。
注釈2:職場でのウェルビーイングは、作業の編成、職場の社会的要因、労働環境、設備及び聞け作業を含む、労働生活のあらゆる側面に関係する。
職場で働く人々のウェルビーイングを実現するため、心理社会的リスクとなりうるものとは何かを洗い出しし、それらの発生の予防的アプローチ対策をとることによって、労働災害事故の発生の抑制、従業者の業務関連ストレスの軽減、メンタルヘルスへの寄与、また、職場環境の改善、離職率の低下、従業者の士気の高揚等への貢献が期待されている。
しかしながら、これら心理社会的リスクの概念を取り入れるなかで、念頭におかなければならないのは、食品安全文化醸成のための心理社会的リスクを見る際、当規格、あるいは、WHOガイドラインにおいては、安全を享受する対象は、あくまで従業員であり、食品安全の場合は、安全を享受する対象は、食品の喫食者であるということは忘れてはならない。
安全文化を含む組織文化に大きな影響を与える利害関係者としての従業者の健康安全を実現していくことが、安全重視の環境構築の一部となると考えるべきである。
では、いったい、心理社会的リスクの危険源とは、どういったものがあるのかについて、同文書に規定された危険源の例をまとめた表を作成してみた。
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危険源については、具体例も追記されており、例えば、上記・表2内の「表2 職場の社会的要因」の「組織/作業グループの文化」の危険源については、以下のように記述されている。
ーコミュニケーションの不足
ー 問題解決及び自己啓発への支援度が低い
ー 組織目標の定義又は合意がないこと
ー 方針及び手順の一貫性のない時期を逸した適用、不公平な意思決定
WHOガイドラインにおいても、同様の形で、職場のメンタルヘルスに影響する心理社会的リスクのカテゴリとして10項目をあげている。丁寧かつ適切な訳語による説明がつけられているため、わかりやすい。
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例えば、これら10項目に対して、「自分の組織は、どの程度か?」と評価してみて、改善の機会を探るのも有効なのではないかと考える。
ISO45003では、例えば、職務記述書のレビュー、作業・日程・場所の分析、利害関係者との定期的協議、パフォーマンス評価・働く人への調査・標準化されたアンケート・監査などを分析、面接・グループ討議・チェックリストの使用、職場の検査及び観察、インシデント報告他関連データのレビューをすることによって、危険源の特定ができると推奨している。
これらの心理社会的リスクの危険源に対して、WHOガイドラインにおいても、ISO45003においても、それぞれ心理社会的リスク管理措置(WHOでは「介入」という用語を使用)の例が記載されている。
WHOが示した「介入」の例のなかでも、「普遍的な組織介入」として、平常時に実施される組織的な管理措置をあげ、それについて、効果があるのかどうかエビデンスを入手しようとする取り組み結果が示されている。研究事例の数の問題もあると思われ、なかなか明確に効果があることを示すエビデンスを入手するのは難しいと思われる。しかしながら、以下の事例にもあるように、メンター支援を含む多要素介入による離職率の低下といった情報等、参照として活用する方法もあるかと考える。
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以上、食品安全文化醸成の一つの領域である「安全重視の環境ーソフト面」を充実させる考え方として、安全文化を含む組織文化に多大な影響を与える従業者の心理社会的リスクをとらえ、そのリスクを低減させるためのハザードの特定、管理措置の実施をとおして、適宜、組織にあった「安全重視の環境」の一部を構築をしてはどうかというご提案でした。
尚、繰り返しになるが、WHOガイドラインやISO45003における安全の対象は、あくまでの組織の従業者であり、食品安全では、一義的に「食品喫食者の安全」を追求していることを前提として忘れてはならない。
現在、FSSC22000等、GFSIで承認されているプログラムを認証している企業は、「食品安全文化」に関する要求事項がプログラムの中で設定されているため、「要求事項で対応が求められているから、とにかく実施しなければならない」という気運があるのではないか。
そういったなかでも、たまには、そもそも、組織の存在意義は何か、今後のどのような方向に進んでいこうとしているのか、安全文化を含む組織文化として何を充実していけば利害関係者が安全・安心の観点から信頼できる組織文化となるのか、ディスカッションをしてみるのはいかがだろう。