続新選組クリスチャン
篠原 泰之進(しのはら たいのしん)
流派は、柔術/良移心倒流,剣術/要心流,槍術/宝蔵院流の達人。
穏やか、さっぱりした性格、明るく無邪気だったようだ。
元治元年(1864年)10月、新選組加盟を前提に上京。しばらく遅れて入隊。
慶応3年(1867年)3月、御陵衛士結成に伴って新選組を離脱。この頃、秦河内と称する。油小路事件後は薩摩藩邸に匿われ、12月18日、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。
戊辰戦争では赤報隊に加わって投獄された後、釈放され、軍曹を拝命して会津戦争や北越戦争で戦功を上げた。
維新後は秦林親と改名。戦功により永世士族の身分、恩賞金250両、終身8人扶持を賜る。明治2年(1869年)に弾正台少巡察、明治5年(1872年)に大蔵省造幣使の監察役。のちに実業家に転身したものの、成功はしなかった。
晩年はクリスチャンとなり、「秦林親日記」を記し、また史談会に出席して証言するなど、当時の記録を残した。
明治44年(1911年)に東京市青山にて84歳で死去。青山霊園に墓がある。
人生の荒波、歴史の荒波を乗り越えた侍は、晩年イエス・キリストに心の平安を見出したのだろう。
彼がどうやってキリスト教と出会ったのかは不明だが、篠原の遺した手帳から、英語を学んでいたとする説がある。
多分、アメリカの宣教師との出会いがあったのではないだろうか。
シラ 38:20 新共同訳
悲しみに心を奪われてはならない。 人生の終わりであったとあきらめ、 悲しみを払いのけよ。
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