コリント人への手紙第一3章講話2回目「肉的クリスチャン」
3章に入ります。ここでは、この二種類の人の他に、もう一種類の人がいることをパウロは指摘します。さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。 肉に属する人がいます。彼らは、キリストにある幼子とあるように、クリスチャンであります。イエス・キリストを自分の救い主として信じています。しかし、御霊に支配されるのではなく、肉に反応しています。自分自身をすべて主におささげしていない人です。ですから、救われているのですが、その救いの中で憩うことをしていません。 パウロは、そのような人たちを、「幼子」と呼んでいます。私たちはイエスさまを信じたときに、新たに生まれました。そして、私たちはキリストにあって成長し、成熟へと向かいます。私たちがイエスさまを信じたばかりのとき、私たちはどのように祈ればよいかよく分かりません。また、聖書もよく分かりません。克服しなければいけない古い習慣をまだ持っています。けれども、彼らの祈りはとても新鮮であり、聖書の受け止め方もとても素直で純粋です。彼らは新しく生まれたばかりの幼子であり、そのような彼らを見ることは他の人たちにとって喜びです。しかし、イエスさまを信じてから20年たっても、同じような状態であったらどうでしょうか。自分に対する、神のみこころが何であるかがまだ分かりません。聖書もあまり分からず、聖書を読みません。まだ肉の問題を抱えて、それを克服できずに苦しんでいます。20年が過ぎているのに、自分の生活からどのような実が結ばれているかを、見ることができません。このような状態は悲しむべきことであり、実にコリントにいる人々は、まだキリストにある幼子だったのです。 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。 肉的なクリスチャンは、キリストについての奥義、神のうちに隠された知恵やご計画を聞き取ることができないという問題があります。他のクリスチャンたちの証しを聞くことは好きなのかもしれません。また、「幸せな結婚生活のために」とか、「自分を愛するために」とかいう、ハウツーの本を好んで読んでいるかもしれません。けれども、キリストとはどのような方なのか、キリストがどのような働きを行なわれているのか、キリストの愛についての深さ、高さ、長さについて、無関心であります。聖書の学びによって、自分の生活にそれが、どのように当てはまるのかがよく分からない人たちのことです。 けれども、私たちが成長するためには、神のみことばを味わなければいけません。私たちは、人々の証しを聞いて、霊的に成長することはできません。それによって励まされ、慰められることはできるかもしれませんが、霊的には成長できないのです。なぜなら、神はある人に対して行なわれる働きは、必ずしも自分自身に対しても同じことを行なわれるとは限らないからです。私たちが、神のみこころを個人的に知るには、ただ神のみことばを学ぶことによってであり、神のみことばを信仰によって受け入れることによってのみです。 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。 肉的なクリスチャンのもう一つの問題は、ねたみや争いがあることです。霊的な飢え渇きがあるのですが、その心の満たしを、主の前に静まって、主との深い交わりの中で得るのではなく、周りのクリスチャンに不平不満をぶつけたり、批判をすることによって満たそうとします。自分の言いたいことを相手にぶつけて、みなが自分に同意してもらうまで主張しつづけます。それは、主との交わりがまだ浅くて、心情的なもの、感情的なものになっているからです。もっと深く、知性、感情、意思のすべてを含む全人格的なものにまで、私たちは主との交わりを深めなければいけません。そして、肉的クリスチャンは、分派心が強いことが特徴になっています。 ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。 「あの先生はこんなにすばらしいのに、なんだこの人は、だめだなあ。」と、ある奉仕者にくみして、他の奉仕者を批判します。キリストのご人格ではなく、伝道師や牧師の人柄、その伝道や宣教の仕方、そうした枝葉末節なことに関心を置いて、分派を作っています。 このように、肉に属するクリスチャンは、霊的に幼子であり、神の奥義について無理解、無関心であり、そして、ねたみや争いあり、分派心がある人のことです。そこでパウロは、彼らの過ちを、いろいろな説明によって正そうとします。