コリント人への手紙第一3章講話3 回目「肉的クリスチャン」
アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰にはいるために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。 肉的なクリスチャンは、人にくみしています。そして、その人を中心にして考えて、その人を柱にしています。けれども、パウロとアポロは、中心的な存在ではなく、主のしもべ、奉仕者である、とパウロは言っています。大事なのは、私たちとあなたたちとの関係ではないよ。あなたがキリストにあって成長することが大事なのだよ。あなたたちが、キリストにあって成長させるために、お手伝いしたにしかすぎないのだよ、とパウロは言っているのです。ですから、大事なのは、あなた自身が神に対して、どのような責務を果たしているかなのです。神と自分との一対一の関係が、キリスト教のすべてであります。ですから、しもべであるパウロ自身も、「主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。」と言って、主に対する自分たちの任務について話しているのです。それぞれが主から任されて、それを忠実に行なうことが求められています。 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。 パウロの働きによってコリントに教会が建てられました。パウロがそこを去ったあとに、アポロが来て、彼らに続けて、神のみことばを語りました。そこでパウロは、「私が飢えて、アポロが水を注ぎました。」と言っているのです。そして大事なのは、「成長させたのは神です。」と言うところです。あくまでも、中心的関心は神なのです。神ご自身と、私との個人の関係であります。そこでパウロは繰り返します。 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。 パウロやアポロから目を離しなさい。そうではなく、彼らをとおして知ることができた神ご自身に目を注ぎなさい。この神を知ることが、あなたがたが生きている目的なのですよ、とパウロは言っています。 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。 パウロとアポロは、コリント人が考えているような、競争する相手でもないし、対立する相手でもありませんでした。彼らは一つなのであり、互いに補完するような働きを行なっていたのです。けれども、パウロは、それぞれが自分の働きに応じて報いを受けると言っています。ここで、私たちはクリスチャンとして生きていくうえで、必ず知らなければいけないことがあります。それは、私たちは自分自身の行為に対してのみ、神に対して責任を負っているということです。何か問題が起こったときに、その原因を、自分の周りある事柄に求めようとすると、その原因が何なのかがぼやけてしまいます。例えば、自分の夫が酒飲みで暴力をふるうという問題がある婦人がいるとします。そのときに、彼女が自分の夫が何とか変わる方法を必死で求めようとするのであれば、それは間違いです。もちろん、そのような解決を求めることは大事ですが、クリスチャンとして生きいこうとするのであれば、このような状況に対して、このような夫に対して、自分がキリストにあってどのように応答するかがたいせつなのです。絶えず、主にあって問題を受け止め、自分が主に対してどのようなことを行なっているのかを問い続けることがたいせつです。そうすることによって、主との交わりはさらに深まり、主のご臨在をさらに意識することができ、主にあって成長することができ、このことに対する報いを、将来、天において受けることになります。ですから、パウロは、「それぞれ」と言いました。各人が、自分自身の働きに従って報いを受けます。 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。 パウロは、教会のことを神の畑、また神の建物という比喩で表現しています。私たちのクリスチャン生活、また教会生活は成長して、実を結ぶ存在です。あるいは、土台が据えられて、建て上げられる存在です。途中で問題が生じるでしょう。けれども、問題は問題が生じることではありません。問題が起こったときに、私たちがどのように克服して、そしてさらなる成長へ飛躍できるかが、大切であります。私たちはつねに、成長します。ある人は、私たちクリスチャンは、道路工事の「工事中」の看板を掲げているのだ、と言いました。まだ完成していないのです。ですから、子どもが大人になるために、思春期という、いろいろな問題を出て来る時期を通るように、私たちが成長するときに出てくる痛みを、喜んで受け入れて、そして前進していく、これが健全なクリスチャン生活であり、教会生活です。