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この戦争は、どう始まったか -ファントム(1)

ファントムの経歴、バンコバの守護者から領土防衛軍突撃部隊へ

12月22日 ウクライナ・プラウダ:

オレクシィ・ファンデツキー

33歳のオレクシィ・ファンデツキーは、アンチ・マイダンから、突撃中隊の伝説的な戦闘指揮官となるまで、長い道のりを歩んできた
彼は、所属するキーウ領土防衛軍241旅団130大隊の外でも広く知られている

コールサイン「ファントム」を持つ兵士の物語は、多くの事実、驚くべき歴史の転換点、彼が直接参加した出来事で人々に感動を与えている
物語の伝え方、事象の分析、至った結論は、分析的思考の鮮やかな一例と言えるでしょう
しかし、読者にはオレクシィが簡単そうに口にする言葉に惑わされないでほしい

この指揮官の言葉の端々から、間違いに向き合う厳しい姿勢と、真実の側に立ち、国民とともに国を守りたいという思いがひしひしと伝わってきます
国や国民が必ずしも彼を理解し、支持していなかったときもありました
しかし、およそすべてが収まるべきところに収まっています

マイダン革命

2013年12月1日
「バンコバ通りで隊列の中、4列目に並んでいました
群衆の中には鎖を持ち、ひたすら兵士を殴る奴もいた
絵の具をかけ、火をつけられた
花火を打ち始めた」

「文字通り、30分で、4列目から2列目になった
つまり、前列の兵士たちはヘルメットを壊され、連れ去られたのです
投石が激しく飛んでくるので、頭にフィットしていたタイトなヘルメットが完全に壊れてしまった
おそらく、ヘルメットのおかげで脳震盪を起こさずに済んだのだと思います
盾もなく、何もなく、ただ立っているだけの状態でした
私たちの後ろにはベルクトのバスがあり、その後ろにはベルクトたちがいました
しかし、私たちは先に立ちました
何も持たずに
そして、人々は私たちを打ち負かしたのです」

ベルクト:内務省に属する治安機関。機動隊。誘拐、拷問、殺人等も行っていた。ウクライナ版OMON。

ウクライナ警察:内務省に属する。

オレクシィは内務省に属するウクライナ国内軍に所属していた
ビクトル・ヤヌコビッチ大統領は、デモ隊を阻止するためにバンコバ通り(大統領府が面する通り)に治安部隊を投入した
デモ隊は、2013年11月30日にキーウのマイダン広場で学生を殴打した責任者を処罰するよう要求していた
デモ隊の主な要求は、関係者の罷免であった
この話は、今では「マイダン革命」と呼ばれる抗議活動の最初の数週間のことだ

ウクライナ国内軍:

「ベルクトが学生に対して特別な手段を用いたとニュースで見たことを覚えています
当時は、私たちが利用されているとは思ってもいませんでした
私たちは国民に対し違法行為をしていると理解していましたが、テレビではデモ隊が『ベルクト』を挑発している映像が流れていたのです」

この言葉を聞いて、多くのウクライナ人の血が「沸騰」するだろう
ウクライナ人なら例外なく、誰でも、学生たちの虐殺によって何百万人もの人々が感じた怒りを記憶している
彼らは、ヤヌコビッチ政権に対するデモ参加者の、最初の犠牲者だった

指揮所にいる指揮官たちは、常に「過激派」の残虐性を強調し、兵士たちにあらゆる手段を採らせてデモ隊に対抗させた
国内軍を怒らせるために、わざと、怒った群衆の前に盾を持たない部隊を投入したのだ
「ベルクト」は無防備な部隊の背中に隠れ、そして、時折、虐殺し殴打するために出てくるだけであった

「『ベルクト』と『過激派』によって引き起こされた大虐殺だった
その結果、私たちは批難されました
でも、その瞬間は、みんな分かっていました
反対派の人も、応援や集会を見に来ただけの人も、もちろん、ジャーナリストもです
ヴェルホヴナ・ラダ(国会議事堂)外壁の一階と二階の間に立つ、カメラマンにベルクトが走り寄り、ズボンのすそを掴み、引き倒したその瞬間の事を覚えています」

オレクシィは慎重に言葉を選んでいる
彼の記憶に刻まれたもうひとつの物語を語ろうとしている
当時は路上で交わす言葉しか得られる情報は無かったのだ
オレクシィは、人々から真実を学び、それに強い興味を抱いた

「大統領府の近くのアーチの下に立っていました
人々が来て、お茶を持って来てくれました
女の子たちが話しに来ることもありました
つい今しがたのように覚えていることがあります
女の子が詩を朗読していました
私が休憩で友人に電話をすると
『ねえ、聞いてよ!
貴方に詩を読んでいるんです!』と彼女に言われました
私は、まるで合図をされたかのように電話を切り、謝ってから、じっと詩の朗読を聴きました」

マイダン革命のときに撮影されたオレクシーと女性

こうした人と人との生のコミュニケーションが、顔の見えない軍服を着た兵士たちを人間らしくしていったのです
特に、「1+1チャンネル」のジャーナリストと司会者たちによる「殴らないで、愛して守って!」というキャンペーンが行なわれたときのことを、笑顔で温かく語ってくれました

「そのとき、少女たちは髪にリボンをつけ、ウクライナの伝統衣装を着てやってきました
ヘルメットのバイザーは降ろしてましたが、中途半端に開いていました
頬にキスをするのは難しかったが、彼女たちはどうにかこうにかやり遂げました
キスは頬に届いてました(笑)」

しかし、オレクシィはとても心配していたという
「1+1」の女の子たちと一緒に写った写真は、瞬く間にインターネット上で拡散されたからだ
その時、オレクシィにはすでにユリアという恋人がいたのだ
オレクシィはユリアに嫉妬されないか心配だった
そして、同僚にも脅かされた

「仲間たちが言ってました
『そうか、隠れろ!
マイダンは、ガールフレンドに家で酷い目に遇わせようという企てなんだ』
正直言って、当時は本当に怖かったです(笑)
ユリアに電話して言いました
『子猫ちゃん、1+1の女の子たちがここに来たのは、パフォーマンスなんだ
彼女達も仲間を応援しなきゃって
確かに、ほっぺにキスされたんですけど...
...嫌だったんですけど、仕方なくて」

その時、ユリアは恋人を信じたようだ
現在、彼女はオレクシィの妻であり、夫婦の間には2人の子供がいる

ユリアは、ファントムという人間を理解する上で非常に重要な役割を担っている
反テロ作戦地域(ATO)での戦闘による負傷後のリハビリやハルキウ北部での大けが、うつ病の克服などをユリアは助けてくれた
オレクシィとユリアは、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、お互いに本当のことを話すと約束している
この約束があったからこそ、二人は戦時中の困難な試練を見事に乗り越えていくことができた

ユリアとオレクシィ

マイダンの後、オレクシィは長い間、平常心でいられなかったと認める
国家の象徴にさえ偏った態度をとっていた
青と黄色の旗に対し、素直に向き合えなかったという
なぜなら、彼を殴ったのは、この旗を持つデモ隊だったからだ
自国民と戦わざるを得ない国家体制だったのだ

皆から拒絶されたオレクシィは、トラウマに悩まされ、辛い日々を送っていた
同時に、ロシアの特務機関も、兵士たちの感情を利用しようとした
オレクシィだけでなく、マイダンに一緒にいた多くの友人たちがほとんど毎日電話を受け、占領下のクリミアに行けば、3倍の給料、アパート、新しい地位を提供すると約束されたという
何人かは同意している…

オレクシィは、休んで、冷静になってから考え、どうにか断った
そして、戦争が始まった

テロリズムとの闘い

2014年4月
電話がありました
電話で言われました
『ATOに行く必要があるんだが、』と
そして、数秒考えて言いました
『行きましょう』」

オレクシィは、彼のこの行動の愛国的な動機について、簡単には説明できなかった
ただ、自分がそこで必要とされていると感じたのだという

「『4歳年下の従兄弟が行く』というのは、僕にとって重要なことだったんです
私が彼の面倒を見るために自分も行こうと思ったのです」

彼らはヘリコプターの部隊に配属された
その日(2014年5月19日)、2羽の 『鳥』が飛び立った
一方にはオレキシー、もう一方はクルチツキー少将が乗っていた
ヘリコプターが撃墜されたことが判明したとき、司令部はまずオレクシィの乗ったヘリが堕とされたと考えたが、その後、将軍のヘリだったと判明した

クルチツキー少将

「私たちはヘリコプターでしか行けない、ポジション・ゼロ (最前線)にいました
しかし、当時はヘリコプターがよく撃墜されていた
 一週間で7機も堕とされたのを覚えています
そのため、物資も届きませんでした
そしたら、現地の人たちが食べ物を持ってきてくれました
そのような仲間がいなかったら、何も食べれられなかったでしょう」

「陣地を通った男性が、私たちがきちんとしているのを見て喜んでくれ、アルテミウスク(バフムート)の自宅の地下室にあった缶詰を全部集めて持ってきてくれました
そして、よく自転車で牛乳を運んできてくれるおばあちゃんもいました
一度に20リットルも持って来てくれるんです
『私たちのところに来ると、危ないよ』と言うと
『でも、牛乳が無駄にならないからね
スリャビャンスクの市場へ行くと、分離主義者たちがうろうろしていて、もし見つかったら、すぐに牛乳をこぼして、彼らに取られないようにしてるんだから』
とってもパワフルなおばあちゃんでした」

「これは、人々が心から応援してくれたってことなんです
その時、私は思ったのです
『私たちは皆で一つの国なのだ』と
皆の役に立つことをやっていたのです
2014年7月23日の『国旗の日』を思い出します
その瞬間、国や州のシンボルに対する姿勢を変えようと、思い直しました」

「その日、検問所まで行き、旗と一緒に写真を撮り、『ラブ・ウクライナ』と書いてSNSにアップしました
国旗を意識した初めての写真でした
その時、私は24歳でした」

その時、勝つためには外国の敵軍だけでなく、誓いを破り、いわゆる「DPR」や「LPR」に行った、かつての友人や同僚たちと戦わなければならないことを悟ったと振り返る

しかし、その2014年の夏、ATOでの兵役は突然中断することになった
オレクシィは戦闘で背骨を負傷したのだ
炎症を起こし、脚の神経が狭さくされた
四肢が動かず、神経が死に始めた

ヘリコプターでイジュームに緊急搬送され、その後ハルキウに運ばれ、そこから飛行機でキーウへ運ばれた
1年のうちに、複雑な背骨の手術を2度も受けることになった
そのため、退役を余儀なくされた
そして同時に、25歳の少尉は再び国から「裏切られる」ことになった

「祖国防衛のために負った傷で、診断書に書いてあったのに、司令部がそれを無視したのだ
25%か35%の障害者手帳が交付された
補償も何もなかった
『それだけだ』と言われ、解雇されました」

「解雇後、公的機関には失望していました
しかし、その時には、私は国家と法執行機関とは別物として考えるようになっていました」

(つづく)

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