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4月、ロシア兵の戦争体験記(1)
(4,006 文字)
私の名前はヴィクトール
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ウクライナの特別軍事作戦(私にとっては、巨大な血まみれの、大規模戦争。公式な宣戦布告のない、この言葉の一般的な意味における、現実の本物の戦争...)の12日目に、YouTubeで我々ロシア軍の捕虜と負傷者が非人道的なウクライナ軍に虐待されるビデオを見て、契約兵として入隊することを決意した
私はベルゴロド州で育ったので、ベルゴロドで登録した
ベルゴロド州の地域入隊事務所で契約を申し込んだ
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医療委員会の審査に合格した
4月3日、第3機動小銃師団(752機動小銃連隊、hr 34670)に配属され、小銃手・グレネードランチャーの補助の任務を与えられた
半年間の契約だ
訓練
以前、私は内務省(MIA)のDzerzhinskiy師団の別働隊で徴兵経験があった
徴兵期間中、射撃練習に4回参加し、1回につき6発を発射したことがある
学生時代、10年生(日本では高校2年生)のときに2週間ほど軍事訓練所に行ったときから、
「なぜ、たったこれだけなんだ!」 と驚き、戸惑い、理解していた
なぜ、たった6発しか撃てないのか?
アサルトライフルを「体感」するためには、マガジンに最低でも15発で、それでやっと単発を2~4発撃ち、4~5発のバーストもできるのだ
ちゃんと撃つには、当然ながらマガジン1本分、つまり30発は必要だ
ロシア軍やMIAでいつも行われる、たった6発の弾丸による標的射撃は、軍事訓練を愚弄しているとしか思えなかった!!!
私の部隊は、西部軍管区司令官の命令で、上級サバイバル訓練コースに送られることになっていた
訓練は2週間の予定だった
また、募集事務所の契約選抜教官は
「グレネードランチャー、マシンガン、スナイパーライフルなどの撃ち方を少し教えてくれる」と言っていた
実際は…すべて嘘だった
私たち(22人)は誰一人として何も教わっていない
試射すらできなかった
4月6日、私たちはすでにウクライナのイジュム町に送られることになっていたが、派遣は2度延期された
結局、4月9日の朝、出発した
軍事的基礎知識で、アサルトライフルは単発で撃つのが一番良いということは分かっていた
しかし、単発や連射のモードの設定、つまりラッチの位置が下なのか上なのか、それすらも思い出せなかった
だから、6日の午後にアサルトライフルを受け取り、7日にはウクライナに着くと確信したので、アサルトライフルを支給する担当者に
「シングルファイアモードはどこですか」と聞いた
これだけが私の訓練だった
そして、攻撃用の手榴弾を2つ持った
手榴弾の有効距離は25メートルで、一番安全だと思ったのだ
手榴弾を使ったことがないので、経験者に正しい使い方を聞いた
信管のねじり方、「アンテナ」の曲げ方、ピンの抜き方など
第2次チェチェン戦争の戦闘経験者はもちろん、単に戦闘経験者で契約社員として勤務している人、あるいは単に契約社員として勤務している人もいた
明かに、彼らは私の10倍は準備ができていた
言っておくと、迫撃砲や大砲の砲撃については、訓練レベルは重要ではなかった
20年の経験を持つプロのスペツナズであっても迫撃砲で即死するし、経験の浅い初心者が何十回、何百回の砲撃の中で生き残ることもある
ただ、Grud(Град)や大砲の砲撃で、できたばかりのクレーターがあったら、そこに飛び込んだ方がいい
そこにミサイルは2度は当たらない
寝袋も弾薬入れもなく、装備は決して良いとは言えなかった
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ウクライナ
9日にイジュームの北にある畜産農場に到着し、そこで一晩寝た
夜、迫撃砲の攻撃(2発)があり、この農場を拠点にしていた兵站部隊のBTRを直撃した
自分のBTRがやられたのだ
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それで初めて爆弾がどういうものかを知った
怖かったし、全体的に不安だった
朝、我が連隊の副長官が来た
「これから地獄に行く、希望する者はこの農場でなら拒否していい、後で戻りたいと言っても誰も帰れないだろう」と言った
一人だけ拒否した…モスクワから来た准尉ワシリイだった
他は全員行くことになった
言っておきたいのは、偵察だけのつもりだった二人まで含めて、全員歩兵にされたことだ
一人は軍曹で、各種センサー、カメラの観測方法の専門家だ
さらに上級のプラポーシク(43歳、ウラジミール)も、ある種の準後方中隊の上級軍曹になるはずだった
しかし、全員、機動中隊の最前線で小銃手や機関銃手、それにグレネードランチャーの射手になるために歩兵部隊に押し込められた
第752連隊第1中隊
こうして10日、私と他4人は、カミヤンカ村の南、200m付近で第752連隊第1中隊に加わることになった
(当時、イジュームはロシア軍が占領し、さらにドネツ川を越えて南進する機会を伺っていた
ヴィクトールが最初に配置されたのは、ドネツ川北側の防衛戦だったのではないかと推測される。)
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中隊を率いていたのはグザエフ中尉だった 中隊(中隊と呼べるなら)には上級軍曹と他に8人がいて、彼らは決して突撃しなかった
私達の入隊で、中隊は13人構成になった
私たちは特に砲撃を受けなかった
ウクライナの爆弾とGRADは、1キロ離れた私たちの砲兵隊を狙っていた
私たちよりも大きく、戦闘力のある第2中隊もやられた
第2中隊は、私たちから300メートルほど離れた左側の潅木の中にいた
彼らはよくアサルトライフルでウクライナのUAV(無人機)を撃っていた、2機を倒したのは確か
だ
私の中隊長は「どうせ倒せないし、危険になるだけだ」と言いい、UAVへの発砲を禁じていた
小銃で落とすことも可能だが、私もその可能性はとても低いと思う
ここで1週間を過ごした
その間に、お互いを知ることができた
みんなと打ち解けた
相互扶助と尊敬の念ができた
一度、垂直に降りてくるドローンに一発だけ撃ったことがある
私たちが到着する前週、私たちの中隊の陣地は、ウクライナの空挺部隊中隊に襲われたのだという
敵は約100~120人だったが、彼らの完敗だった
一部は退却し、負傷者のほとんどを連れて退却したと聞いている
その上陸ポイントには、約40〜50体の死体が残されていた
臀部(でんぶ)を負傷した一人のウクライナ兵が捕虜になり、師団本部に連行されたという
誰も彼を罵倒したり、叩いたりしていないという
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(注:個人的に、この事実には強い疑問を感じています。当時、兵力と火力で劣りじりじりと後退し、ドルゲンコエ村でも守りを固めていたウクライナ軍がわざわざカミヤンカ村付近の露軍の防衛線(ドネツ川)の突破を図っても戦略的にあまり意味が無いからです。ウクライナ軍がドネツ川北側に渡河をしても包囲されるだけの結果にしかなりません。ウクライナ軍がドネツ川渡河を強行する理由が見当たらないのです。
なにより、第1中隊の構成が不自然なのです。ロシア軍の戦術単位であるBTGは歩兵人員100~200人、歩兵中隊1~2部隊とされています。第752第1中隊が新人志願兵8人が補充される前は、僅か5人しかいません。ヴィクトールが匂わせているように、明らかに不自然です。ヴィクトールたちが補充される前の人員はどこへ消えたのでしょうか?わずか一週間前に、この防衛線で100人以上のウクライナ軍空挺部隊を撃退したはずの第752部隊の兵士たちはどこに行ったのでしょうか? 第752部隊がドネツ川を渡河をしようとして失敗し、東側からのドネツ川越えを諦め、西側ドルゲンコエ村からの攻撃に切り替えたと仮定したほうが、全体の状況を矛盾なく説明できます。)
初めての、そして最後の発砲
それから一週間経ったある日の午後、ウクライナの偵察部隊がこの船着き場に入り、死者から何か(無線機、書類、認識票、あるいは他の何か、念のため何かないか確認するためかもしれません)取ったようだが、よく分からない
しかし、第2中隊はそこに動きがあることに気づき、発砲を開始した
発砲音が聞こえたので、我々もすぐに攻撃を準備した
隣の人が、上陸地点の隙間に2人見えると言った
その場所を確認し、すぐに一発ずつ撃った
上陸ポイントの辺り一面を14発ほど撃った
思えば、ウクライナでの約1カ月間、武器を使ったのはこのときだけだった
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ドルゲンコエ村攻撃準備
4月18日、私たちはこの上陸地点を離れ、カミヤンカ村に行った
翌日、ドルゲンコエ村への攻撃が計画されたからだ
あまり眠れず、休めなかった
夜遅くには攻撃地点に向かった
壊れた学校で一夜を明かした
逆説的に言えば、それだけでも十分な睡眠だったことに感謝している
朝、ブランシュコフカ村で、第2中隊にさらに13人の志願兵が加わった
彼らはロシアから来たばかりだった
正直なところ、これはどうしたことかと唖然とした
どうしてそんなことが可能なのか?
私たちの軍曹(彼自身は攻撃に出たことがなかった)は、ある男にPKM機関銃を一つ渡した
私はその男に聞いてみた
「銃身に弾はこめたか?」
私は、マシンガンのベルトの挿し方を知らなかったが、安全装置を外して撃つ方法だけは知っていた
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男は「知らない」「武器の扱い方は全く知らない」
「配属されたら運転手になると言われていた」と言った
私は軍曹を呼んであげた
軍曹は機関銃の銃身に弾を込めようとしたが、うまくいかなかった
ジャミング(弾詰まり)していた
チェチェンで戦った上等兵曹の義勇兵がやってきた
マシンガンに装填するのに2分ほどかかったが、彼はやり遂げた
このときの攻撃は、そうやって準備された
(続く)
参考:
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