日記4(※でも両親は嫌いじゃない)
ECサイトで『crepuscule』のページを開いてからおそらく30分以上が経過していた。5時間前に食べた鮭のムニエルとその少し後に食べた水羊羹は十分に消化され、外も走りにいくのに丁度いいくらい薄暗く、涼しくなっている。今日は一度も外に出ていないし、まさに今が走りにいくべきタイミングだった。
昨年友達から『crepuscule』のニットをプレゼントされた。そのニットの鹿の子編みによる生地の繊細な色味や着心地の良さは、何を着るか迷ったら手に取ってしまう親しみやすさがある。僕はそれ以外薄手のニットを持っていないし、春先に着る機会も多いだろうとも思っていたので、もう1着、二万円弱するニットを買うべきどうか迷っていた。高いものを購入するか、はたまたしないのか、すぐに判断できないのが僕の癖である。
『ねじまき鳥クロニクル』で登場するクミコは家庭の事情で自分が欲しいものを手に入れることができた記憶がないらしい。彼女曰く、自分が求めているものが手に入らない人生に慣れると、自分が本当に何を求めているのかさえ段々わからなくなってくると言っていた。
僕も彼女ほどではないが似たような経験をした。僕の家が食うに困るような家計状況にあったというわけではない。というのも僕の家は平均的な家よりは収入が多く、給食費を払うのに苦労したとか、知らない人の制服をお下がりを着て登校したとか、そういった経験とは全くの無縁だった。しかし家はケチな母と何にもお金を使わない父(僕は、父が一度も外に遊びに出かけているところを見たことがない)に統治されていた。いやむしろ、そういう両親だったからこそ常にお金に困るということがなかったのかもしれない。とにかく、家族の誰かが、自分が欲しいものを買うという機会は僕の小さい頃の記憶には一つもないし、さらにいうと現在もアメニティなどの日常的に使うものの質を視界から排除して、いかに安く済ませられるかというところに焦点が置かれている。母は親戚の集まりがあるたびに、自分がまとっている服装の安さを自慢していた(なんでも言っちゃう率直なところが母の長所でもある)。そういう環境が僕の物欲と結びついて関係しあった。たとえ欲しいもの、必要なものがあったとしても、高いという理由だけで、本当にそれを自分が欲しているのか、必要としているのか自信がなくなってしまう。考えれば考えるほど自分の考えに自信が持てなくなる。こんな小さい呪いみたいなものを持っている僕が高額なものを買うときに意識することは、スピードである。商品に対して、圧倒的に偏見を持って素早く、断固として購入することが必須である
ここまで、読んで頂いた人にはわかるだろうが、迷っている時点で僕がニットを購入できるはずもなく、iPadを閉じて、スポーツウェアを洗濯物から探す作業に移った。