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日記1(メスのシャチと女性)

 電車の席は規模の大きい劇場のように、席によって音響がいい席だとか、劇が見やすいだとかそれぞれの良さがある訳でもない。猫も杓子も電車の端の席は他人との接触が少なく、追加の料金を払わないで座れる最高の席だと考えているだろう。僕もその一人であり、電車の扉が開くと間髪入れず、端の席を確保した。コートに皺がつかないように用心して座り、朝古本屋で買った文庫本をコートの深いポケットから取り出して、それを読むことで時間を潰していた。100ページほど読み続け、いい加減首が疲れてきた僕は、視界の情報を等しく受け取るように、前を向いてボンヤリしていた。前に座っていたのは立体的なマスクをした女性だった。急に前を向いた僕を怪訝な目で見た後、スマホに目を落としたのをなんとなく感じた。電車内はこれと言って面白いことがあるわけでもなく、乗る人全てが諦めて退屈に晒されている。僕は目の前の手すりを掴む女性の手を見て色々想像することで時間を潰そうと考えた。女性は肥満体型の高齢者で大量の荷物を持っていた。手すりを持つ手には年輪のように細かい皺が刻まれ、心臓が悪いのか浮腫んでいた。その奥から見えるやけに青黒い血管は、不必要なもの、もしくはそれに似たものを心臓へ送り戻している肝要な役割を担っているのだろう。新百合ヶ丘駅でその女性は降りて行った。降車する人々の先頭で早歩きする姿は、僕に閉経後のシャチを思い出させた。

 先日読んだナショナルジオグラフィックで、興味深いシャチのメスの特集がやっていたのだ。(友達のお父さんに譲ってもらった日焼けしたかなり前のバックナンバーのものだった)。僕はシャチの知識をほとんど持ち合わせておらず、「海の殺し屋」という物騒な悪評のみを聞いたことがあった。記事によると、シャチのメスは閉経後も50年ほど生き、子供の世話をし、指南役として知識と技能を若い世代に伝えるらしい。そもそも閉経後も長く生き続ける哺乳類は人間・シャチを含め3種類しかおらず、大抵は生殖を終えると死ぬ動物が多いのだ。「メスは90歳くらいまで長生きし、家族の世話をする」。僕は引合いに、山奥のコミューン内で、子育ての手伝いや農作業の指導をする婦人を思い浮かべた。ただそれだけ。

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