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2024/5/30 デカローグ5・デカローグ6

連続公演で上演されているデカローグのプログラムCの感想Noteです。
プログラムAとプログラムBの感想Noteは、別で書いているのでお時間あればぜひ読んでみてください。(文字数が多いのでお気をつけて…)

プログラムA(デカローグ1・デカローグ3)

プログラムB(デカローグ2・デカローグ4)


1.デカローグ5-ある殺人に関する物語

(0)前書き

20歳の青年ヤツェクは、街中で見かけた中年のタクシー運転手ヴァルデマルのタクシーに乗り込み、人気のない野原で運転手の首を絞め、命乞いする彼に馬乗りになり石で撲殺する。殺人により法廷で裁かれることになったヤツェクの弁護を担当するのは、新米弁護士のピョトルだった・・・・・。
(デカローグ公式プログラムより引用)

(1)序盤

今までの演目とは異なり、この物語のベースとなる部分を司法修習生であるピョトルが説明するシーンから舞台が始まる。
このお話は、現代社会にも繋がる人と法についてであった。人には、それぞれが持つ元来ながらの自由が存在する。しかし、しばしばそれらは暴走したり、良くない方向に働くためそれを制御するために法律があるのだと。これにより、一見無造作・無防備な個々人の自由が法により制限されたかに思われるのだが、実際は異なると彼(ピョトル)は説く。
誰かが法によって裁かれたりした後、そこには復讐が起きる。復讐によって生まれた悪に対して、法が関与しまた誰かが裁かれる。
法は果たして本当に人間の中にある邪悪な部分を平等に制御できているのだろうか。誰かが誰かを法によって裁く。少なからずその瞬間に上下関係が成り立ち、裁かれた者ないし、裁かれた者に関係する人たちは少なからず復讐といった念を持つだろう。そういった部分から物語が始まっていく。

(2)中盤

司法修習生だったピョトルが、4年の期間を終えついに弁護士となる。ピョトルは成績も良く優秀で、頭もキレる賢い人間だった。彼は当時の社会情勢の中では珍しく、死刑という制度に異を唱える人物であったが、彼の優秀さを買って弁護士としての面接は合格となったのだろう。弁護士とは?という問いにも、ピョトルは「今ははっきりとわからない」と答えつつも、人と法、その間に仲立ちすることができる唯一の権利を持った職業であると説いていた。そんな彼も合格した際には、家族に電話し心の底から喜んでいた。

時を同じくして青年ヤツェクは、物語の冒頭から必死にタクシーはどこにいるのかを探していた。しかし、田舎ゆえに移動の足は貴重であるため映画館の受付のおばさんに教えてもらった広場でさえ、長蛇の列だった。そんな状況でウロウロしている青年が、カフェに立ち寄った際に運命的な展開が訪れる。彼は先にカフェに入り、牛乳とケーキを注文していたが、それらがくるや否やケーキにがっついた。彼の精神状態は、フォークもまともに使えないようなぐらい緊迫していた。(ここからなんとなく育ちの悪さが垣間みえるような気がした)彼が先に入って牛乳とケーキを食べている時に、運良くタクシーの運転手であるヴァルデマルが来たのだ。ヴァルデマルは、カフェには入らずウェイターに自分は外で待ち合わせをしていると言い、「コーヒーを外にあるタクシーへと持ってきてくれ」と伝える。それを聞いたヤツェクは、食べ物を一気に流し込み、ヴァルデマルの元へいく。奇しくもその青年の行動の直前に、弁護士になったばかりのピョトルが入店するのである、、、ピョトルは入店後すぐに店の電話を借りて、喜びを親に電話していた。彼が電話をかけ終え、席につくと注文していたコーヒーがちょうど運ばれる。ピョトルが席につく、そのちょうど入れ替わりのタイミングでヤツェクがヴァルデマルのもとへと向かう。
観客側(客観視点)だと、この数少ない奇跡的な状況で、ピョトルがヤツェクを引き留め、その後に起こる未来を止めることはできなかっただろうと思うが、この物語の最終場面ではピョトルは自身の行為を振り返り激しく後悔していた。

ヤツェクは、タクシー運転手であるヴァルデマルを喫茶店で見つけ、すぐに追いかける。その時にうっかりロープを出してしまい、慌てて隠していた描写があった。そこから彼の身なりや、やけにタクシーを探していたこと、そして念願のタクシーを見つけ、後部座席に座った時にようやく全てが繋がる。彼はお金を得るために、その手段として人を殺すという行為を用いようとしていた。そのために首を絞めるためのロープが必要だったのである。
ただこれがなかなかうまくいかない。後部座席に乗って、タクシーをヴァルデマルに運転させることには成功したものの、タクシーの窓が開いていたり、工事中の道路に引っかかって作業員が真横に来たりとなかなか行動に移すことができない。ある程度車を走らせ目的地に近づいたタイミングで、ヤツェクがヴァルデマルに左へ曲がれ伝える。そしてついに、その時は来てしまう。ヤツェクは意を決してロープをヴァルデマルの首にかけ、殺人を実行する。もちろんヴァルデマルも激しく抵抗するため、簡単には殺すことができない。ヴァルデマルもなんとか手を伸ばしてクラクションを押す。やっとの思いでヴァルデマルの意識を落としてから、ヤツェクは運転手を移動させる。しかし、ヴァルデマルはなんと生きていたのである。ヴァルデマルも最後の足掻きで声を上げるが、ヤツェクはその運転手にまたがり石を頭部にぶつけ最後のトドメを刺す。これで完全に彼の強盗殺人が完成してしまった。
お金を奪うだけであれば、ここまでする必要はなかった。しかし、最後微かに残っていたヴァルデマルの息の根を完全に止めたヤツェクの行為は明らかに殺意を持ったものであり、ヤツェクを狂気的な人物に昇華させたような気がした。

(3)終盤

その後、話は急展開を迎える。ヤツェクが逮捕され、裁判を受けるシーンに移行する。このシーンでは裁判が終わった直後に、逮捕されたヤツェクが護送車に連行される場面となっていた。
衝撃的なのは、この裁判の弁護を担当していたのが新米弁護士のピョトルだったのだ。裁判でヤツェクに言い渡された刑は実刑であり、しかも一番重い死刑であった。護送車に連れて行かれる場面では、思わずピョトルがヤツェクに声をかける。しかし、無情にもヤツェクはそのまま連れて行かれてしまう。
裁判終了後、ピョトルは裁判長と直接会話をする。「新人の自分ではなく、もっと実務経験のある弁護士が担当すべきだったのではないか」と。しかし、裁判長は誰であってもこの判決は変わらなかったと彼に答える。加えて、近年の死刑を覆そうとする弁護人の説明の中でもピョトルの説明が一番素晴らしいものであったと彼の弁護を賞賛する。だが、弁護士のピョトルにとっては被告を守れなかったこと・彼の考える法と人間の世界、それらが達成できなかったが故の葛藤が溢れ出ていた。それに対して裁判長はこう付け加える。「裁判長が私以外の誰かであれば、判決は変わったかもしれない」「あなたも今日で少し歳を取りましたね」と。新米弁護士が抱える葛藤と彼が持つプライド。それらを壊すことない裁判長の完璧な返事は、法の世界に長い時間いた人だからこそできたことなのだと思った。

ここからさらに、物語は終盤へと進んでいく。
裁判の判決が決定し、死刑執行の日取りをピョトルは聞きにいくことになる。日取りを聞いた後、最後の面会を行う。そこで初めてヤツェクの過去が明かされる。
ヤツェクは6人兄弟で、自分の上に兄が4人と妹が1人という構成だった。妹は5人いる兄の中でも一番ヤツェクのことを慕っており、ヤツェクもまた一番妹のことを可愛がっていた。しかし、そんなある日悲劇が起きる。ヤツェクが友達と盗んだ酒を飲んだ後、その友達がトラクターで妹を跳ねてしまい妹が死んでしまったのだ。その直後に彼の父親も亡くなり、ヤツェクは半ば自分のせいで妹が死んでしまったと考え、ふるさとを飛び出してきたのであった。父と妹そして、母の3人のために買ったお墓だったが、残念ながらそれはヤツェクが使うことになるという悲しい結末になってしまった。
ピョトルも時間制限がある面会の中、何度も所長からの催促の電話を断りヤツェクの話を聞き、最後の想いを汲み取ろうとする。しかし、無情にもその時は訪れる。手錠をかけられ絞首台に連れて行かれるヤツェクが最後に発した言葉は「死にたくない。」。当たり前である。刑が執行される時のヤツェクの年齢は20歳であり未来はこれからである。死にたくないと思うことは当然であるし、考え方の一つとして生きて償うということもできたかもしれない。しかし、法の下でなされた判断は極刑である死刑であり、それを拒むことはできない。青年の心の底から出る生きたい!という本能から出る行動、それを見ることしかできない新米弁護士ピョトルの無力と絶望。そんな中で刑が執行され、舞台は暗転。あまりにも衝撃的な幕切れで本当に言葉にならなかった。青年役の福崎さんの演技があまりにもリアルすぎて、余計に緊張感溢れる切迫感・絶望感・リアリティが観客の目の前に広がったような気がした。

2.デカローグ6-ある愛に関する物語

(0)前書き

郵便局に勤務する19歳のトメク。彼はシリアに派遣されている友人の母親マリアと暮らしていた。そして彼は向かいに住む30代の魅力的な女性マグダの生活を日々望遠鏡で覗き見ていた。マグダと鉢合わせしたトメクは、彼女に愛を告白するが、自分に何を求めているのかとマグダに問われてもトメクは答えられない。その後デートをした二人、マグダはトメクを部屋に招き入れるが・・・・・。
(デカローグ公式プログラムより引用)

(1)物語全体を通して

これまでのように、序盤・中盤・終盤と分けて細かく感想を書きたかったのですが、観劇直後に書いていたメモが完全に消えてしまいました….
このお話だけ全体的な感想ベースで書けたらなと。

まずは、この物語の主人公のトメクについて。
彼は真面目に郵便局員として働きながらも、夜な夜な自宅にある双眼鏡でマグダの部屋を覗いていた。
この覗きの習慣は、最近始まったわけではなく友人がシリアに派遣される前からトメクと友人の間で行われていた遊びだった。そんなトメクはありとあらゆる方法で、マグダとの接触を試みる。覗きをしている時は、トメクと恋人が逢瀬を重ねるたびに、いたずら電話をかけたり、ガス漏れの嘘の通報をして2人の邪魔を試みる。また、郵便局員の仕事を応用し、架空の印字証明書?(ここはちょっと記憶が曖昧です…)をマグダの家のポストに投函することで、マグダが必ず郵便局に来るように仕向けたりしていた。物語の途中で、トメクは早朝の牛乳配達のバイトを始めていた。ある日トメクが牛乳配達をした際に、マグダはトメクを引き止める。除いている理由をマグダに聞かれ、トメクは自分の感情を素直に吐露し、マグダに「愛してる」と伝える。それに対してマグダは、「それなら私とデートする?」とトメクに問いかける。早朝は牛乳配達、日中は郵便局で仕事をし、夜な夜な自分の部屋から望遠鏡を使って女性を覗くようなトメクにとって、マグダからの誘いは驚きの提案だったように思う。おしゃれなお店でマグダと時間を過ごしたトメクは、マグダに誘われるがままいつも彼が覗いていた部屋へと連れていかれる。部屋につき、マグダは半裸になりつつトメクを誘惑する。童貞のトメクは半ば混乱しつつもその場で射精してしまう。そんなトメクに対して、マグダは「これが愛である」と彼をからかう。しかし、トメクは恥ずかしさを初めとしたありとあらゆる感情の中、慌てて自宅へと帰宅する。
帰宅し、友人の母マリアにデートはどうだった?と問われるもトメクは何も言葉を返さない。彼が毎晩覗き見していた先にある理想とマグダ、一方で彼が接した現実とマグダ。純粋な恋愛と男女の関係を全く経験したことのないトメクにとって、この経験はあまりにも残酷であった。着替えを終えて洗面所へと向かうトメク。彼は意を決して自分の手首を切り、自殺を図ろうとする。
一方のマグダは、トメクが自分の部屋に忘れたコートを届けに向かう。その時に始めてトメクが入院したことを知る。朝は牛乳配達に来る人が、昼は郵便局で働いている人が、夜はオペラグラスで向かいの部屋を見てそのオペラグラスの先にいる人がトメクではないか。彼女は毎日心配していた。
しばらく経ったある日、トメクは郵便局での勤務に復帰していた。それを見て安心するマグダ。しかし、そこには昔のようなトメクはいないようだった。凛としたというより、どこか飄々とした雰囲気を醸し出す青年はマグダに対して「もう覗きはしないよ」と一言伝え、舞台の幕は降りる。

3.デカローグ5と6の緩やかなつながり

今回のデカローグ5と6では、これまでの物語とは異なり5と6の間で直接的なつながりは描かれていなかった。ただ、デカローグ5で登場した運転手のヴァルデマルは、デカローグ2でドロタとアンジェイがタクシーに乗ろうとした際に断るシーンで登場しており、デカローグ6で登場した郵便局は、後のデカローグ10のお話の中で登場してくる。デカローグ5はすでに描かれた物語と。デカローグ6はこれから先に語られる物語と緩やかに繋がっていて、ここでは発見という形でつながりを感じることができた。

4.感想

デカローグ5と6を鑑賞した感想は、人間の心そのものが描かれた作品だったように感じた。
・デカローグ5
一言で表現するならば、「えげつない」
本当にリアルを追求して、その先に表現される物語がこれほどまでに圧倒され、そして自分ごとのように感じられるものであったことが素直に凄まじかった。
この物語は、珍しく登場人物がものすごく多いお話だった。司法修習生、バッグを持った青年、タクシー運転手、清掃員など。細かい情景描写に表現する人も含めると、かなり登場人物が多かった。
物語の軸となるのは、ピョトルとヤツェク。2人は終盤のカフェですれ違う前までは、同じ時間軸を過ごしながらそれぞれの描写が綺麗に描かれていた。
個人的にタイムリープしたり、視点や時間軸が行ったり来たりするお話はなかなか時系列の整理がつかず、途中でこんがらがってしまうのだがこのあたりも非常にわかりやすい演出になっていた。
物語の鍵を握る「法と自由」。これについても、細かく描写がされているように感じた。
例えば、あるシーンで青年はどこかのビルから何かを放り投げ(自由)、そのせいで路上では事故が起きていたし、その青年がタクシーを探すために公園に行った際にも、鳩に餌やりをしたいという老人(自由)にあっちいけと言われるも戻って鳩を追いかけて驚かしたりといった形で。
また、他にもタクシー運転手は、妊娠している妻のために病院に向かわなくてはいけずそのためにタクシーが欲しいという男に対して、洗車中だからタクシーを出したくないと言う一点ばり(自由)であったりと個々人の自由が散りばめられていたように感じた。
・デカローグ6
最初は単純なお話かと思いきや、物語が進むにつれて人間の奥底に眠る「孤独」にフォーカスが当てられた作品だったように感じた。
「覗く」という行為に対して、その人それぞれの孤独が感じられる気がした。主人公トメクの「覗き」は、単純な孤独というよりも自分に足りない「愛」への孤独であるし、マリアがのぞいた時はトメクが実際に何をしていたのかを確かめるための「覗き」でありつつ、息子の代わりとして一緒に住んでいるトメクがしている行動を見つめることでマリア自身の「孤独」を埋めようとしていたのではないかと感じた。一方で、マグダの「覗き」はこれまで自分が感じていなかった「孤独」を、トメクとの関係性が一気に崩れたことによって痛感したマグダが慌てて埋める「覗き」。三者三様、いろんな人が抱える孤独が繊細に・シビアに描かれているような作品だったように感じた。


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