自立と繋がり〜心はベビーかも説〜
1人で楽しめるようであることが大切。
自分で自分を幸せにできることで、他者との関係が良好なものになる。
そうすれば、他人に幸せにしてもらおうと求めなくなるから。
他人に幸せにしてもらおうって魂胆が、自覚無自覚を問わず少しでもあれば、どこかで歪みが生じる。
他人に満たしてもらおうって前提は
「こうして欲しい(なのにしてくれない)」
「こうなってくれたらいいのに」
そんな思いを生む。
人間関係のトラブルは大概ここにある。
だから、自立すること。
自立とは、自分で自分を満たせること。自分で自分を幸せにできること。
幸せの発端を他人に求めないこと。
一方で
他者との関わりの中で感じる幸せというものが確かにある。
これは、人間は1人では生きられなくて、誰1人として自分1人で生命の維持ができている者などいないという事実から考えたら、おかしくないのかもしれない。
この幸せを求める気持ちとどう付き合ったら良いのか?
きっと自立した上でなら問題ないはずだ。
自立=自分で自分を幸せにできている から
満たされている状態にある。
それならば、他者との関わりの中だけに幸せを見出しているわけではないから、他者に求めることは起きづらいと考える。
矛先が人なのかモノなのかの違いだけ
大切な人と心通わせられない時、ものすごく心が囚われてしまう。何も手につかなくなってしまう。
そのたび思う。私は自立できていないのかと。
自分を幸せにできる方法ならたくさん知っているつもりだ。
なのにこのような状況にあるときそれらは殆ど力を持たなくなる。
没入できるような音楽も、ライブに行くのも、コスメ巡りも、好きなものを食べるのも、公園を散歩するのも、インテリアショップを見るのも…
心が枯渇した状態では、何をしても取るに足らないものとなってしまうのが正直な感想。
だけど私は、こんな時でも必ず心に効くものを実は知っている。
紙でもテキストでも、思いのままを垂れ流し書き綴ることだ。
ちゃんとした文章になんかしなくていいし、罵り嘲り下衆、、なんでもアリ!笑
可視化すると感情が整理されるし、客観視できるから冷静になれる。
これは根本からの安心につながる。
それ以外の趣味等(先ほど挙げたもの)の、私を楽しませてくれる何かは〝私を幸せにしてくれる誰か〟に期待する状態と大して変わらないのかもしれない。
対象が人でないだけで。
依存の矛先がものになったというだけで。
極端な例かもしれないが、酒、ギャンブル、買い物などはわかりやすいその典型だろう。
依存か共存か?
対象が何であれ、全く依存しない在り方は可能なのか?
先ほども述べた
人間は1人では生きられなくて、誰1人として自分1人で生命の維持ができている者などいないという事実。
この時点ですでに依存しているのだろうか?
これを依存と呼ぶのだろうか?
うーん??
これは「共存」ではないか?
共存は相互理解が必要。
他者を理解するためには、まず己自身の理解も深めていることだ。
冒頭に書いたこの一文。
これを為すには
どうしたら自分は満たされるのか?
どうしたら自分は幸せを感じられるのか?
そう自問する必要がある。
自ずと自身への理解が深まってゆく。
つまり
「共存」を成立させるためには、各人の自立なしには難しいと言うこと。
自立していないままで「繋がり」などを求めてしまえば、それは依存という形の何かが生まれる。
お腹が空いた時
赤ちゃんは泣いてお母さんに訴えて、満たしてもらう。なんせ自力ではできないから。
でも大人になったら、自ら作るなり買うなり食べに行くなりして、自分で腹を満たすようになる。
って、当たり前やん!と?…笑
しかし
〝腹〟でなく〝心〟を自ら満たすことときたら、
「ちゃんとできてまっせ」って大人はどれだけいるのか?
疑問ではある。
「お母さん!満たしてよ!ちょうだいよ!」
ということを母親にはしないものの
〝お母さん〟を、パートナーやら世間の評価やらに変えて、求めているケースが多いと見受ける。
そう考えたら、まだ自立の余地がある人が大半だったりするのかもしれない。
共存を〝健全な依存〟と呼んでも面白いかもしれないが、自立あってこその健全な依存が、幸せな繋がり感を生むような気がしている。
幸せの供給源
誰かの言葉や行動が、喜びや幸せの供給源となってはいないか?
もちろん、他人から褒められたり愛の言葉をもらったりしたら嬉しいもの。
だけどそこだけに、自分の幸せを頼っていたら
それもやはり、他人への依存となってしまう。
かく言う私だって怪しいもので(笑)偉そうなことは全く言える立場じゃない。
うっかりいい気になってもっと欲しがっている自分にはたと気づき、戒めるのである。