同調と自分の感覚 どちらを選ぶ?
久しぶりに母の用事もかねて都会方面に出かけ、街を楽しんできた。
観たかった「雀の戸締り」も見て、当日の朝、偶然に知った
『「生きる」大川小学校 津波裁判を戦った人たち』も見ることができた。
大川小学校のことは気になり、自分なりにネットに出てくる記事を追っていった。
けれども、何故校庭に51分間とどまり、1分ほどで行ける裏山に避難しなかったのかわからなかった。
そうして月日が流れ、映画を見たが、より詳細なことはわかったがモヤモヤは残った。
映画鑑賞終了後、寺田監督がいらしていて少々お話しも伺った。
その中で大川小学校が地域住民の避難場所になっていたこともおっしゃられていた。
どうしてもモヤモヤするので、ネットをいろいろ調べていたら、
信頼できそうな文献のPDFファイルに行き当たった。
そのファイルはリンクをはることができなくなっている。
どなたかが、真実を知りたい人のためにWEB上にあげてくれたものだろう。
理路整然とした現地の地形の説明・周辺の歴史 そこからくる住民たちの防災意識、当日の様子で判明している事柄を時系列に並べてものなど多岐にわたり丁寧に述べられている。
この地域は津波の被害にあった歴史がなく、大川小学校が警戒区域を外れていたこともあり、津波に対する防災意識は低い地域であった。
また、教頭と教務主任は、研修を受けており津波時における科学的リテラシーを有していたこと、特に教務主任(生き残った教諭)は前任校で津波防災対策を担当しており、その時に彼が書き換えたマニュアルにより、前任校の児童はすぐに裏山に避難し助かっている。
そして、もっとも知りたい校庭に避難中の51分間の時間、
教務主任は早くから裏山への避難を訴え、提言していた。
教頭もそうするのが良いとしながら、他の教員から裏山への避難でけがなどしたときの責任問題への言及、校庭に避難してきている住民(年配の住民を含む)たちとの話し合い(言い争い、住民らは裏山への避難を反対し、三角地帯への避難を主張していた)の中で、三角地帯への避難に傾いていったようだ。(同調していった)
職員会議でも津波についての議論は行われておらず、研修その他で得た知識は、教員間で共有されていなかった。
最終的な避難先決定の際、生き残った唯一の教務主任は校舎に入り不在であったらしい。
裏山への避難を主張したのは教務主任だけではなく、高学年の男子生徒のなかにもいた。
助かったのは、三角地帯の移動列に加わらなかった児童2名、津波に襲われながらも流れてきた物につかまった児童2名、裏山にのぼった教務主任1名の5名。
あの時から11年 自分の中で一つの区切りがついた気がする。