
昼休み、弁当と、感極まる
受験期ストレス発散に色々書き溜めていたものを、これからたくさん更新していこうと思います。
親友とお昼を食べていたとき、
そのやりとりにとっても心救われた
以前までの自分は
多分完全に利他であろうと倫理にがんじがらめになっていたというか
今もそんなに変わらないけれど
けどその子は
「支援とか、誰かを助けたいと思う慈悲の心って、
突発的な感性のままでいいんだと思う」
そう言ってくれた。
良い行いをすればいつか自身に返ってくるからとか、
神様だけは自身の事を見ているからとか
理由なしにただ、動くんだ。と思う瞬間がいくつもあって
その瞬間、自分が何のために、どんな信念を持っていたのか
絶対分からないものだと思うけれど、
それは上手く倫理理論に当てはめたり、言葉に出来なくても
その純粋な気持ちがあったのだと認識していいのだと
そう思えたからだった
助ける、助けないとか贈与論的な話をすると、
必ずそこに力関係の優位性が生まれるような気がして好きではないけれど
(完全に松村圭一郎さんに影響を受けてます)
純粋に、ただ、その人の為に何かしたいと思う瞬間があって良くて
むしろふとした瞬間に出る、”優しさ”とかってきっとそういうもの
なのかなって、当たり前の事だけど改めて気付くことができたから。
「多分この世の社会システムから、
”情”を完全に取り除くことは出来ないよね」
合理性だけで世の中を回すことって、きっと人間には不可能なことで、
システムの中に、人々自身が、一種の人間らしさを追い求めるのではないか。
最近の世界史の授業とか、読んでいた本とかにも強い影響を受けた考え方だけれど、友達と二人で
「きっと、そういうことだよね」
って
お互い生活史が、とっても好き
(私は全然かじり始めだけど)
社会構造の中に、超超ミクロなレベルで存在する個の現象から、
質的に話を聞いていく
その社会学の意義とか面白さにずっと魅了されている。
それをまた異なる何か(マーケティングや公衆衛生開発)の
実践的文脈に当てはめようとする、誰かもいれば
一言で言い表せない、けれど底に必ず存在する”何か”を他者に後味として伝える為に、寓話や文章として伝える
(実践の対義で理論という言葉を使おうとすると変なので)
文学として個の現象を訴えようとする誰かもいる
今まで学問分野上
理論と実践とって正反対のような場所に位置していた自分たちだけど
「生活史」という
意外な場所に共通点を見いだせてそのときはただ嬉しかったのを覚えてる