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無責任な言葉でも、
今日、駅に行ったら階段の下におじいさんが倒れていた。
うめいて座り込むおじいさんに「立てる?立てないの?」とオロオロしているおばあさん。
いつからいたのか、と周りを見るも、ちらりと見て行ってしまう。
誰も助けを呼んでないかもしれない、と思い駅員さんを探しに走った。
走ったはいいけれどどこにいるかはわからない。一番近くにある店の店員さんに「階段の下で倒れているおじいさんがいます」と伝え一緒に走って戻った。
すぐに応援のスタッフがさらに二人来て、「救急車を呼びましょう」ということになった。おじいさんは目の横から血が出ていた。
外階段だったので寒いだろうと、近くのファミマへ走った。中学ぶりの階段ダッシュ。
ファミマで2本の温かいほうじ茶を買ってまた走る。
おじいちゃんと少し話をすると、しっかり目を見て話せたのでほっとした。
おばあちゃんは市内に住む娘さんに電話をしていたようだ。
「娘は病院に直接行くからって言ってたんだけど、わたしはどこにいたらいいの?ここで待ってたらいい?」と焦っているように見えたので
「おじいちゃんと一緒に救急車に乗って病院に行きましょう。病院に着いたら娘さんに病院の名前を伝えてください。そうしたら娘さんが来てくれるから。大丈夫ですからね。」と伝えた。
おそらく普段はしっかりしたおばあちゃんだから、娘さんも普通にお話したんだと思う。思っているよりもパニックになっていた。
お茶飲んでね、大丈夫だよと言って駅の方へお願いした。
怪我の状態が悪くないといいなと思う。
わたしは、立ち止まらない人たちが悪いとか、怒るとかそんなことを思う立場じゃない。
その人たちは助けなくていいと判断した。
わたしは寄り添った方がいいと判断した。それだけの話。
価値観が違うだけ。
ただ、怪我の状態の良し悪しではなくて、何かが自分の身に起こった時に
「大丈夫だよ」「温かいものを一口飲んだら少し落ち着くよ」と誰かがそばにいたことが大事だと思う。
その時は目の前の状況に精一杯だけど、落ち着いた後に『みんな見て見ぬふりだった』場合、その後二人でお出かけすることが怖くなっちゃうんじゃないかとか、身体よりも心が心配だなとか思ってしまうから。
誰かが必ずどこかで助けてくれるって思ってほしいと考えてしまうのは綺麗事かもしれないけれど。
大丈夫って無責任な言葉かもしれないけれど、わたしは欲しいなと思ってしまう。
病院の先生じゃないから何かができるわけじゃないけれど。
しばらくドキドキしていた。
マキシワンピで急に階段ダッシュをしたからか、怖かったからか、怒っていたからか。
そんな夕方だった。