時間のダンス
今日は少し私の最も好きな芸術作品のお話をしたいと思う。プレヴィアーティ・ガエターノの「時間のダンス」。本当は、この絵の歴史や技術をを語りたいわけじゃないけど、私とこの絵の関係を語るつもり。
2017年9月。高校生の私は学校でつまらない世界歴史の授業中、先生が気付かずに、美術史の教科書を開いて、偶然この絵があったページを見かけた。そのページはまだ見たことがなかった、一学期が始まったばかりだった。そんなに麗しくて安らぎという気持ちを伝えられる作品を見たことがなかった。「時間のダンス」は結構知られていない作品で、プレヴィアーティは結構知られていない画家。とにかく、「時間のダンス」はプレヴィアーティ画家の名作。芸術作品を見てそんな気持ちになったことがなかった。その時、自分の唖然とした表情を隠すのは本当に難しかったけど、世界歴史の先生は自分の話に吸収されすぎて気付かなかった。
急に夢中になってしまった。でも、あと何週間、突然同じように、夢中になった時期が終わってしまった。学校で忙しすぎて、他の美術史のクラスに知って勉強した画家に夢中になって、パスコリの「ミリーチェー」とボードレールの「悪の華」を読んでのめり込んで、プレヴィアーティの「時間のダンス」のことを忘れそうに見えた。たぶん、本当に忘れてしまった。でも、今考えると、忘れたと思わない。心のどこかでじっと休眠していたと思う。
「時間のダンス」を考えていない間、大好きなファン・ゴッホと一番大切な出会いがあった。「カラスのいる麦畑」という作品を見て、震えた。それを見てから、たまたま作品にいるカラスが私に向かって飛んできたのを夢見た。数月後、その「カラスのいる麦畑」を生でアムステルダムで見ているとき、美術館で泣き出してしまった。
2018年4月。その4月は、気分が悪かった。大学の入学試験の準備と、高校の最後の試験の準備と、家族の状態と、あの時の元カノと喧嘩したため、なかなか疲れていてメンタルヘルスが悪化してきた。では、ただ大学の入学試験の前日、学校で遠足をしました。フェッラーラの美術館に行ってきた。フェッラーラは近くないから、朝早く起きなくてはいけなくて、少しイライラしていた。でも、美術館に行くということを考えたら、すぐに落ち着けた。この文章を書いているとき、どうして美術館に行ったか覚えていない。その上、美術館展のテーマも覚えていない。しかし、重要なのは、展示会の終わりに、プレヴィアーティの「時間のダンス」も露出された。
生で見ると、本当に違う感じがある。その前で立つと、不思議に思ったことは、胸が軽くなって、独りぼっちで、もうその部屋にいないかのようだった。本に載せた写真は本物のようなものじゃなかった。
その中に生きる美しい乙女を見ると、私もその一人になりたくなった。時間の女神のように、温かい日差しを浴びながら、私もそよぎたくなった。永遠に廻り、永遠に溢れる光に沈む。太陽が眺められる目がしていたい。時間の乙女だったら、時間を止めたり変えたりできるだろう。もしこの世界を逃げるとしたら、プレヴィアーティの絵に入りたい。伸びやかな浮遊感。
私の中にある混乱は落ち着いた。少しずつ、悩みが消えた。心配も、全部忘れた。一瞬にして、生きていることがどれほど素晴らしいかを思い出した。
なぜこの絵を全然最もお気に入りのは思っていなかったか知らない。大好きな描画と言えば、マティスの「ダンス」とか、ファン・ゴッホの「カラスの麦畑」とか、ゴーガンの「甘い夢」がすぐに思い浮かんでいたけど、プレヴィアーティの「時間のダンス」は意外に遅くなった。これ以外、この絵が心の中で残した感情は感じたことがない。もう一度、心のどこかでじっと休眠していたはず。今日ここを書くまで。
世界で美術があるのは、なんてよかったなあ。