インスタント花見の麻酔
桜の枝を買って花見をした。でもこれは本当に花見なのか?
と思う出来事があったので綴ります。
春になると桜が咲く。散りゆく様子を眺めてその姿に美しさを見出す花見。今年も春がやってきて、花屋に桜が並ぶ。
2枝で600円。安くはないけど高過ぎるでもない。そっと手に取った。
買って帰った桜を、大口のガラス花瓶に生ける。
家に桜があることで、春の麗らかな日差しが差し込んできたみたいだ。
数日で膨らんでいたつぼみも開いて、満開を迎える。
嬉しくなって妹にLINEした。
私は、綺麗だねって妹が楽しんでくれると思っていた。
「え……うん、すごいな。」 それが妹の反応。
想像の違い過ぎる反応。なんでそんな温度が低いの?と妹に深堀してみた。そこで衝撃的な一言をもらう。
「それってほんまに花見なん?その枝って木から切り落とされてるんやろ?なんやそんなこと思うてしもて、純粋に楽しめへんわ…。」
花見といえば、土から出た太い幹に生き生きと広がる桜の散り様を楽しむ。枝だけ切り売りされた桜で花見とすることに違和感を抱いた妹は、素直に美しいとは思えなかったみたいだ。
私は消費で得るインスタントな美しさに、どこか心が麻痺していたのかもしれない。
けれど買って生けた時の花の美しさ、膨らんだつぼみが開く様子に震えた心は何だったのか?私は花を買って生けることが好きだ。その延長線で花見をしてみたつもりだった。
あくまで即席で、簡単で、安っぽくて。
そんな慈しみは、命を軽んじるような無意識と紙一重だった。
全ての花びらが散り、枯れた枝をゴミ袋に詰めている時、枝を手折った。
ごつごつとした表面が、しなり曲がりきる感触を忘れることができない。
諸行無常、是生滅法。春の桜を眺める日本の風流は、今も昔も変わらない。
土から伸びた桜の木々が、生きながら花びらを降り注ぐ風景を人々が集まって慈しむ当たり前も、このご時世でできなくなってしまった。
今の私は、花見が恋しいこの気持ちを大切にしたい。