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嘘として楽しむ。

こんにちは。ノーザです。
このYouTubeの動画内で、「カカオ100%のチョコレート」を食べるシーンがあります。これまでも、チョコレートに含まれるポリフェノールの抗酸化力に期待して、85%とか、99%のチョコレートは食べてきたのですが、カカオ100%のチョコレートは人生を振り返ってみても、食べたことがなかったと思います。
僕はそのカカオ100%のチョコレートを食べた後に思わず、「これはもうチョコじゃない」と発言してしまいます。噛んでも噛んでも口の中に「甘み」が広がることのないそれは、自分の中にあった「チョコレートは甘いもの」という観念に合致せず、「チョコじゃない何か」だという認識になってしまいました。でもこれはチョコレートじゃない何かなのでしょうか。偽物なのでしょうか。

結論から言うと、カカオ30%の甘いチョコレートだろうが、カカオ100%の苦いチョコレートだろうがそこに本物も偽物もなく「どっちもチョコレートである」と言うことになるのですが、少し僕なりの考えを書いてみたいと思います。

Wikipediaによると、チョコレートとは、カカオの種子を発酵・焙煎したカカオマスを主原料とし、これに砂糖、ココアバター、粉乳などを混ぜて練り固めた食品である。とあります。
そもそもチョコレートとは、カカオだけで出来上がるものではなく、カカオの苦味と砂糖などの甘味とのハーモニーを楽しむものといった定義です。(その割合や配合でビターチョコレートやミルクチョコレートになっていくと思います。)
今まで“普通”に生きてきた僕にとっても、疲れたときに無性に食べたくなる、甘いそれが「本物」のチョコレートのように感じていましたし、その「甘み」を求めてチョコレートを食べていました。そして、大抵の場合止まらなくなって、食べすぎてしまいます。全然チョコっとなんかじゃ終われなくなります。それくらい、チョコレートの「甘さ」には中毒性があると思います。実際にはその甘さの正体は砂糖によるものだと思うのですが、僕が「甘くないチョコ」を「チョコじゃない」と言ってしまったくらい、「チョコ=甘い」という観念は、僕たちの頭に強く染みついています。自動的に「甘いチョコ」=「本物」で「甘味の一切ないチョコ」=「チョコじゃない(偽物)」となってしまった。
ですが、カカオは本来甘くありません。だから、カカオ100%チョコレートでは、中毒性もそこまでなく、食べすぎてしまうことが少ないと感じます。(チョコっとで終われます。)
凄く極端ですが、僕たちは、カカオというよりはカカオにくっついた砂糖に取り憑かれているといえるかもしれません。

今回、人生で初めて「カカオ100%のチョコレート」を食べたとき、もしかしてこっちが「本物」だったんじゃないか。。と思ったのです。(どっちもチョコレートであることは理解した上であえてそう書きます)
何が言いたいかと言うと、僕は「本物」を知らないままに「偽物」を「本物」だと思い込んでしまっていた。そして、「本物」の方を「チョコじゃない!」と言ってしまった自分のその思考に、少し恐怖を覚えたのです。
そんな思考回路が、嫌な空気感を生み出す構造に似ているように思えてしまったのです。

例えば、インスタグラマーやインフルエンサーに対して、可愛いと思っていたのに、加工だった、実際の顔と違いすぎる!などの批判があったりします。
それは「甘いチョコレート」が「本物」だと決めつけてしまっていて、甘くなかった時に、「これはチョコじゃない!」と言ってしまった僕の思考回路と同じような気がしたのです。
アイドルが隠れて恋愛をしていたり、台本の無いはずの恋愛観察番組でやらせが発覚して、出演者に誹謗中傷が殺到してしまったり。
僕たちは、それを「本物」だと信じすぎている可能性があると思うのです。

インスタグラマーが加工で可愛い画像を上げていたとして、もしかしてそれが「嘘」だったとしても、それを見て、単純に「可愛いぃ〜」って言っていればいいと思うのです。いやもっというと、本当は加工で可愛く見せているのとかもわかった上で、それでも「可ぁ愛いぃ〜〜」って馬鹿みたいに楽しんでいればいいんじゃないかと思うのです。台本が無いと言う「程」を楽しめばいいんだと思うのです。絶対に嘘をついちゃいけない、嘘ついてた奴は再起不能になるまで叩き続ける。そんな余裕のなさは、すごく危ういんじゃないかと思うのです。果たしてそれは「本物」だったのかすらわからないのに。「本物」だと信じ込みすぎるのは危ないんじゃないかと、カカオ100%チョコレートを食べてそう思ったのです。
今僕たちに必要なのは、「嘘」だと見破って叩くことじゃなく、「嘘」だとわかった上で、その「嘘」を楽しむことなんだと思います。そんな心意気、そんな心の余裕なんじゃないかと思うのです。

もしかしたらこの世界は、「嘘」にまみれているのかもしれない。一見「本物」にしか見えないものも、僕たちが気づけていないだけで本当は「嘘」だったりするのが現実かもしれない。もしかしたら、もう全部が「嘘」かもしれない。
でもその「嘘」を「嘘」として楽しむことができたなら、チョコっとだけ余裕を持って生きることができたなら、世界はもっと甘くなっていくんじゃないかな。なんて、そんなふうに考えています。

Love is all.

今回行った「veritas」というスーパー。ヴェリタスはラテン語で"真理"を意味するそうです。この世界において、真理というものはものすごく見えづらいものです。だからスーパーのveritasの字の下半分が切れている=見えにくい的な意味があるんかなぁ、、、?とか深読みしてしまいます。

では、また!

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