「脳」と「爪」
先日、僕がスペインに来るまでの話②を書きました。
プレシーズン、めちゃめちゃ忙しくて時間があまりとれなくてコツコツと、カメみたいなスピードで書きました。
ウサギとカメの話ってあるじゃないですか。
ウサギ速い→でも寝ちゃう→カメ遅い→でもコツコツ歩み続けて壮大な逆転劇。っていう有名なあの話。あれチャンピオンズリーグ的に考えると、ウサギのアウェーゲームも必要じゃないですか?
まぁ、ウサギはホーム「陸」で負けていることには変わらないんで、アウェー「海」は相当ハードな戦いになることが予想されますし、限りなく不利な状況なのは間違いありません。
僕はさっきから何を書いているのでしょうか。
ちょっと意味のわからない導入になってしまいましたが、今日はこの話。
僕がスペインに来るまでの話②で書いたこの
「相手チームと戦えていないチームが多すぎる」って話を少し詳しく掘ってみようと思います。
何と戦っているのか
これまで22年間、選手としてサッカーをしてきて凄く感じていることなのですが、目の前の相手じゃない「何か」と戦ってしまっているチームが多すぎると感じているんですよね。
その「何か」とは、例えば、監督。
試合中、ずーっと怒り続けてる監督って結構いるんですよね。試合に出ている選手たちのアラを探し続け、いちいちミスに対して、上手くいかなかったプレーに対して、ガミガミガミガミ。上手くいかなかった試合後には戦犯探しに明け暮れて、その選手をチームから排除してしまうことすらある。そうなると選手としては、次は自分がそうなるんじゃないかとビクビクしながらプレーをすることになります。選手としては、「試合に出れない」ということはめちゃめちゃ怖い。
他には、「文句を言うチームメイト」「怖い先輩」などかもしれませんし、「チームの戦い方」かもしれません。
疑問を抱きながら、怒られないように怯えながらするプレー。それらは果たして「目の前の相手と戦っている」と言えるのか。
僕はずっと、それって健全じゃないよなって思っているんですよね。
いや、「相手と戦おうよ」と。
確かに、「怒り」はパワーを持っていますから、上手く使えば起爆剤的に一瞬だけ頑張れたりするのかもしれませんが、それって長く続くのかなって。「怒られる」というスイッチがなきゃその力が出せなくなってしまうのではないかって。
監督の中に理想のサッカーがあるのは理解できます。でもそれができないのを選手のせいだけにするのはおかしいのではないのか、むしろそれができないのは監督の伝える力が足りないってのも原因としてあるんじゃないの?とか思ってしまいます。(一応、書いておきますが、これは批判とかではありません。ですが実際にそういう指導者が多いと感じています。)
僕も将来、指導者を目指していますから、選手としてプレーしながらも、怒られた時の選手の心情だったり、他の選手が怒られた後の反応とかを注意深くみているんですよね。そうするとどうも、怒られて「プラスに働く作用」と「マイナスに働く作用」では、長い目で見て、どうみても「マイナスに働く作用」の方が多いと感じます。完全に萎縮しちゃうし、怒られるからと、チャレンジすることを辞めてしまう。これ、回り回って『チーム』にとってもマイナスでしかないと思います。みんな勝ちたいと思っています。多分、負けようと思ってプレーしている選手なんていません。
勝負
サッカーに限らず、戦いや勝負の目的は「勝つ」ということだと思います。「勝ち」はそのスポーツや遊びによって変わります。例えばサッカーなら、90分という時間が終わった瞬間に、相手より1点でも多く点をとっていれば「勝ち」です。バレーやテニスは、先に規定の点数、セット数を取ったら「勝ち」です。野球は9回が終わった時点で点が多かった方が「勝ち」だし、将棋なら先に王を取った方が「勝ち」です。こんなふうに「勝ち」にもいろいろあります。それによって戦い方はガラッと変わってきます。
では自分の人生における「勝ち」とはなんですか?それも人によって何が「勝ち」かが違うのでなんともいえないですね。誰かにとっての「勝ち」が自分にとっての「勝ち」とは限りません。
スポーツや遊びには「ルール」という制限がありますし、むしろその「ルール」「制限」がそのスポーツ、競技、遊びそのものとも言えるかもしれません。
サッカーでは手を使ってはいけないという割と理不尽な「ルール」があります。でもそのルールという枠組み同士で戦うから面白い。
勝負とは、与えられたルールの範囲内で、相手に「勝つ」ために、どう相手を『上回るか』だと僕は考えています。ルールの範囲内で「勝つ」ためにやれることは全てやっていくべきだと思います。
「勝ち」にもいろいろな階層があります。個人としての「勝ち」、チームとしての「勝ち」、クラブにとっての「勝ち」はもしかすると違うのかもしれません。これは話し始めると長くなりそうなので、詳しくはまた違う機会に書きます。
僕は、いわゆる「プロフェッショナルファール」なるものは「勝つ」ために必要なものだと思っています。なぜなら、それをした場合のペナルティがしっかりとあるからです。イエロー(レッド)カード、もしくは数試合の出場停止かもしれませんが、「勝つ」ために、そのペナルティを受け入れてまでする価値があると判断した場合には、そのファールが必要な時もあります。リーグの定めるルールの範囲内で、優勝なり残留なりそのチームにおける「勝ち」を目指すべきだと思うのです。(どんな場合であっても、相手を傷つけることが目的のプレーは論外です。)
日本では、「勝ち方(負け方)」「礼儀」「作法」などの、ある種『美』を大事にする文化という側面もあるので、日本の道徳や倫理的にはアウトになりかねないことも理解しています。そして僕はその『美学』みたいな考え方も本当に好きです。しかし、それで負けてしまったら、元も子もないし、食い物にされかねません。これについてもまた書きます。
駆け引き
「勝つ」ために、「相手を上回る」ために欠かせないのが「駆け引き」です。
「駆け引き」とは、語源がそもそも「戦い」から来ているそうです。(戦場における作戦上の言葉で、隊の進退のタイミングをはかるという意味があり、戦場用語で「駆け」は馬に乗って駆けることから敵に向かって攻め進むことを意味し、「引き」は馬の手綱を引くことから退却を意味したとか。。。)
勝負において「駆け引き」が大事。言ってしまえば、「当たり前」です。
大乱闘スマッシュブラザーズというゲームを知っていますでしょうか。マリオ、ピカチュウ、ドンキーやリンクなどそれぞれ特徴を持ったキャラクターたちが究極のサバイバルゲームを繰り広げる、僕たちの青春です。やり始めたら止まりません。スマブラをやっている時、それはもう鬼の駆け引き合戦です。
まずめちゃめちゃ相手の特徴を考えます。例えば、マリオは全体的にバランス良いけど、これと言って飛び抜けた特徴があるわけではないっていう、いつもの「マリオ」なんだけど、ファイヤーボール連発されると結構うざい、、とか、ピカチュウはすばしっこくて意外と攻撃も強いけど、軽いから吹っ飛びやすい、、とか、プリンはどっかのウサギのように、不用意に眠っちゃうとか。
自分のキャラと相手キャラとの相性はどうで、あと何機あるのかなどによって戦い方を変えていきます。
目の前の相手をやるか、やられるか。甘えなしの究極のゲーム、「スマブラ」では全員が当たり前のようにそんな駆け引きをし続けます。「勝つために」「生き残るために」
サッカーでも、自分たちは誰で、相手は誰で、どんな特徴があって、どんな状況で、あと何機残ってて、制限時間はあとどのくらいで。。。と、こんなふうに戦えたら良いなと思いますし、この「駆け引き」こそが勝負の1番楽しいところだとも思います。しかし、そうやって戦えていないチームが多い。それはなぜか。
わかりにくい
サッカーでも、スマブラのように「駆け引き」ができたら良いのだけれど、それがとにかく難しい。凄く複雑だし、偶然性が高い。そして何よりも人数が多い。1チーム11人で、ピッチでは相手チームの選手を含め計22人もの選手がプレーすることになります。
人数が多いと、各々の選手が目の前の相手と「駆け引き」を繰り広げていて、チーム「全体」としての「駆け引き」が見えにくくなります。
それにサッカーでは、役割の境目もわかりづらい。例えば野球なら、どこまでが自分の役割かが明確で、わかりやすいですよね。
なので、より「駆け引き」がわかりやすい『ボクシング』を例にサッカーを考えてみます。
ボクシングは1vs1です。スマブラとまではいかないものの、それこそ究極のサバイバルです。←
「駆け引き」のミス=負けと言ってもほぼ間違いではないというスポーツだと思います。
相手が右手でパンチしてくるから、左手でガードする。相手の左が空いてるから、右手でパンチする。相手がどういう状態かを見て、それに対してアクションを起こす。凄くシンプルに思えます。(ボクサーの方々にしかわからない細かい「駆け引き」は人を殴った経験すらない僕にはわからないので大目に見てね)
他には、相手のリーチが長いから、懐に入ってやろうとか、スピードで翻弄するために、少し離れて撹乱しようとか、ファイヤーボールをいつ出してやろうか、など、、、、
自分が持っているもの、相手が持っているものを照らし合わせて、実際に相手とリング上で向き合って、見て、感じて、実行すると思います。なぜなら、目の前の相手に勝つために。ほぼスマブラです。
11人羽織のボクシング
サッカーは、この「1人」でやるボクシングを、「11人」でやっているようなものだと僕は考えています。11人が『1人の身体』を構成します。イメージとしては「2人羽織」。
2人羽織は、2人で1人のように振舞いますが、サッカーはそれを11人でやります。二人羽織のように「手」と「顔」だけじゃなく、身体全体を11人で作ります。いわば、「11人羽織」です。「11人羽織でボクシング」です。
そんな「11人羽織ボクシング」(サッカー)では、相手の顔の左半分が空いてる時に、右手でストレートをかましたいのに、右手が上手く動かない、、、みたいなことがよく起こります。(ちなみに相手も11人羽織で戦うから面白い)
「駆け引き」うんぬんの前に、サッカーでは「自分たちの身体」を思い通りに動かすだけでも、一苦労なのです。
そんな「11人羽織のボクシング」で、もし、限りなく「1人」のように身体を操れるチームがあったらどうなるでしょうか。はい、そうです。それはもう圧勝です。動かない相手の左側をドーン。一撃です。もうファルコンパンチです。ショイヤムー。
わかりやすいように例えるはずが、「11人羽織のボクシング」とか、もっとわけのわからない例えを持ち出してしまい、さらにわけが分からなくなってしまっている感も否めませんが続けます。
サッカーは、「(1人の)身体みたいなチーム」が理想だと僕は思っています。Mr.Childrenの桜井さんは、piecesという歌で「僕等はひとつ でも ひとつひとつ」と歌っています。しびれます。今ずーっと正座しながらパソコンのキーボードを叩いているからとかじゃなくて、しびれます。ビビビときました。僕たちはみんなで「1つ」を構成しているんだけど、でも1人1人であることには変わりないよねって感じ。いやぁ、痺れます。
人体のように
実際のサッカーに戻って考えてみます。「11人」で「1人」を作っていました。そうなると当然、「右手」の人もいれば「左手」の人もいます。あの選手がチームの「顔」だ!と言ったりすることもありますよね。
そんな風に、みんなで「1人」を作っているのに、みんなが「自分」なのに、味方に対して文句を言ってしまうとは、つまり、「右手」が「左手」に対して文句を言うことに等しいと言えないでしょうか。
それが、目の前の相手に「勝つ」という目的のために、どれだけ必要なのでしょうか。
勝負事の目的は相手を上回って「勝つ」ことだったはずです。
動かしにくい、思い通りにいかない「身体」だとしても、それでも相手と戦うべきではないでしょうか。
「右手」が「左手」に対して、萎縮して動けなくなるくらいめちゃめちゃ文句を言ってしまったり、「脳」が動けと指令を出したのに対して、「左足」が嫌だといって動かなかったり、進むために「右足」が前に出たのに、「左足」があいつは嫌いだからとか言って、後ろに出てしまったり。
それは、「相手と戦っている」と言えるのでしょうか。
チームの究極系は、「右手」だったら「右手」の、「心臓」だったら「心臓」、「脳」なら「脳」の役割を各々が全力で全うし、尚且つそれが、1人の「身体」を構成しているという、究極的に自己中で、同時に、究極的に利他的。そんなチームなのではないかと僕は思うのです。
実際には身体の組織1つ1つが他の組織ために!と思って働いているわけではありません。本当に自分の役割を完璧にこなそうとしているだけです。でもそれが結果的に、身体のためになっている。この絶妙なバランス感覚。人体って本当に奇跡的です。
「脳」と「爪」
「脳」と「爪」。身体においての重要度としては一見「脳」の方が大きく見えてしまうかもしれません。しかし、「身体」を構成するためには、全部が必要です。「爪」がなかったら、小さいものを摘んだりすることができません。小さくても、目立たなくても、何をしているのかわかりづらくても、相互作用で成り立っている場合、ないと困ります。だいたいそういうものは、失ってから気付きます。そこに偉いも重要も上下もクソもない。
実際、よく見てみると、「脳」という字の中に「ツメ」もしっかり入っています。
僕はスペインに来る前に、左足の小指を骨折しました。たかが骨一本、身体の中での比率としてはものすごく小さい。でもその一本が折れただけで、普段の生活すら思うようにおくれなくなってしまいました。少し動くだけで、めちゃくちゃ時間がかかってしまい、2ヶ月ほどの期間、カメのようなスピードで移動していました。その分ストレスもたまる。足の骨一本が、最終的に「心」まで重くしてしまうことを実感する出来事でした。(松葉杖をつきながら、執念でカフェに通っていました。いやなんの執念。ショイヤムー。)
「爪」なら「爪」の
チームという「身体(組織)」の中で、もしかしたら自分は、足の「骨」の一本かもしれません。「右手」かもしれません。いや、もっともっと小さい、「爪」かもしれません。
そうであるならば、「自分」のために、「骨」なら「骨」の「右手」なら「右手」の、「爪」なら「爪」の仕事を全うしようじゃありませんか。「チーム(組織)」に所属するとはそういうことだと思うのです。
しかし、こんなこと書いておきながらなんですが、実際の世界では、「右手」がめちゃくちゃ文句を言ってきます。「左手」がめちゃくちゃ「顔」を殴ってくることもあります。「左足」は相変わらず言うことを聞こうとしません。でも、やるしかないんだと思います。「爪」の仕事をやり切るしかないんだと思います。良い「爪」になる努力をするしかないんだと思います。「左手」が「左手」の役割をできていなかったら、“ささくれ”を作ったりして、小さな反抗をしてしまうかもしれません。でも、『自分』を苦しめてなんのプラスがあるというのでしょうか。
チームにおける監督は、もしかすると「脳」に近い存在なのかもしれません。じぶんの思い描く理想のプレーと現実のプレーがかけ離れていたら、怒りたくなってしまう気持ちもわかります。しかし、一度、それを疑い、伝え方、そもそもの考え方、戦い方はこれで良いのかを考え、改善する努力をし、それをピッチで選手たちが体現できるまで伝え切る、そんな「神経」のような役割も同時に担っているのではないかと思っています。
ジャイアン
「主語を変えること」これがチームにおいては大切だと思っています。「あなた」とか「俺」とかじゃなく、「僕たち(We)」にする。なぜなら「11人だけど、1人だから。」「お前」のミスじゃなくて、「僕たち」のミス。誤解を恐れず、もっと踏み込んで言うのなら、「あいつ」のゴールは、「俺」のゴールです。なぜなら、「僕たち」にはまだ味方と自分の境目がありますが、「俺」では境目が消え去り、完全に「1人」になった究極系だからです。「あいつ」のゴールは、「俺」のゴール。その言葉だけ聞いたら、どっかのジャイアンみたいに、めっちゃくちゃ傲慢に聞こえてしまうけど、実は、1番優しい言葉なのかもしれません。ジャイアン、映画版だとエグい優しさを見せてきます。心の友よ。
「あいつ」は「俺」
そうは言うものの、たとえ、どんなに自分達は「1人」「ひとつ」だと思っていたとしても、わかっていたとしても、その部分部分を担うのは、「1人の人間」です。そこにはどうしても感情が入ってしまいます。今までの話はなんだったんだよって思う人もいるかもしれませんが、それが人の性(さが)でそこから逃れる術はありません。しかし、僕はこの「人間がやる」というところに、とてつもないロマンを感じてしまうのです。
サッカーは、「右手」が「左手」を励まして、「爪」が「脳」を刺激して、理屈じゃ考えられない「奇跡」を割と普通に起こしてしまう。だからやめられない。どれくらいやめられないかというと、スマブラくらいやめられない。
僕は、ピッチサイドで声を張り上げて、選手達に魂を注入し続ける、「アドレナリン」のかたまりみたいな、熱い監督がめちゃめちゃ好きです。
大切なのは、それが「チーム(自分)」のためになっているのか。
選手としてプレーをしていると、もどかしいこと、理不尽に感じてしまうこと、「チーム(組織)」の中での無力さを感じてしまうことの方が多いかもしれません。わかっていても、味方に対して文句を言いたくなったり、怒ってしまいたくなることもあります。でもそれは、「勝つ」ために必要なことなのか。全ては「勝ち」からの逆算でなければいけません。でも、もし、「左手」が「左手」の働きをできていない時、それが『自分』のためになるのであるのならば、伝えるべきだとも思っています。
全員で、「1人」だから。「あいつ」は「俺」だから。
「自分」の立場を理解して、役割をまっとうする努力をし続ける。
ファルコンパンチ
このブログを書いている途中で、今年のリーグ戦が開幕しました。ハードだったプレシーズン、多くの怪我人が出たり、明らかにコンディションが悪くなっている選手たちがいる中で、毎練習、毎試合、「自分」の全力を出す努力をしてきました。プレーとしても、自分の中では結構手応えがありました。
しかしそれとは裏腹に、開幕戦、メンバーには入ったものの、出場なしでした。5人ある交代枠でも使われませんでした。正直、手応えと評価の間に、ものすごくギャップを感じました。すごく思うところありました。しかしこんなブログを書いている僕が、厳しい状況に立たされて、簡単にやめてしまったら大バカ野郎です。「クゥ〜〜〜、問われてるぅ〜。」って思いながら、ベンチから試合を見ていました。
今できる自分のMAXを出し続ける。
改善できる点はなんだ?と「自分」を疑い続け、よりいい「自分」を目指し続ける。やれることを増やし続ける。
今の僕には、いや、選手としてやり続けるからには、本当にそれしか無いんだと思います。
すごく難しい、きわどい話をしていることは理解しています。俺はやってると思いすぎると、悪いのは組織のせいだと、自分を正当化してしまうかもしれません。ここのバランスは非常に難しい。
しかし、全力でやり切って、"良い"爪であり続けたと胸を張って言えるまでやり切って、でもそれでも、その『組織』において、必要とされていないのであれば、所属する組織を変えるという選択もありだと、僕は考えます。
日本では、チームを変えること、組織を離れることは「逃げ」だと捉えられがちですが、それは1つの「選択」です。決して「逃げ」なんかじゃありません。僕たち人間には、「選ぶ権利」があります。
その『身体』が必要としている"良い爪"は、キラキラした爪なのかもしれないし、鋭く尖った爪なのかもしれません。
「勝ち」がそれぞれで違ったように、"良い悪い"の「価値」もそれぞれ違います。「環境を選ぶ」ことも、自分の役割を最大限こなすことと同じくらい、大切な事だと思っています。そんな話もまた書きます。
自分の役割を見極める。そしてそれを全うする。それでも必要とされないのであれば、自分を必要としてくれる場所に行くという選択肢も入れる。でも言い訳はしないで、自分の能力を磨き続ける。。。。そんな「自分」でい続けられたのなら、そういう『人』はきっといつか、一発逆転のファルコンパンチを繰り出せます。
いや、なんなら、人だけに限らず、『眠れるウサギ』にだってきっと、奇跡は起こせます。ウサギ!次の戦いはゴールの直前で寝ちゃうようなそんな『ツメ』の甘さを見せないように!
「海」でのアウェーゲームはさすがに厳しいか。。。
はぁイタタタ。
ブログが長すぎて、足痺れたわ。
あ、ずっと正座しながら書いていたからか。
おい「左足」!
ちゃんと動かんかい!!!
Love is all.
「ショイヤムー」とは、スマブラのキャプテンファルコンというキャラクターがする「アピール」の時のセリフで、スマブラをやったことがある人は絶対に知っているセリフです。
調べてみると、『Show me your moves(お前の動きを見せてみろ)!』と言っているそうです。『駆け引き』する気満々のセリフ。やっぱり「相手」を見るのってめちゃめちゃ大切だ。いつだってスマブラは、勝負とはなんたるかを教えてくれます。それではまた!
ショイヤムー!