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反転するバタイユ(1-1)

 『エロティシズムとは死に至るまでの生の称揚である』

繰り返し言われるバタイユのエロティシズムの論理も、もはや加速主義を強化する言葉でしかなく、インセルの私にとっては何ら魅力的な文としては映らない。

  寧ろ我々はこう言わねばならないだろう。
「インセルとは生に至るまでの死の称揚である」
と。

すなわち、この死であり、終わっている資本主義において、初めから生などないのであるのだから、まずはその生を奪還しなければならない。勿論バタイユが人間が労働をし、死を禁忌として忘却しており、エロティシズムによってこれを回復する、ということは知っている。だが、その回復が「ここではないどこか」になった今、それを行う「私」をもう一度定義し直さなければならない 。


 トロッコ問題を想定して欲しい。トロッコが暴走し、このままでは園田智代子・小宮果穂・西城樹里・杜野凛世が轢かれてしまう。だが、線路の外で有栖川夏葉はスイッチを握っている。このスイッチを押せば進路が切り替わり放クラのメンバーは助かる。だが、代わりに全裸中年男性が一人死ぬことになる。さて、有栖川夏葉はボタンを押すのか?

答えは勿論、「押す」でしかないだろう。だが、このボタンを押す瞬間、有栖川夏葉は涙するのである。それは、全裸中年男性を救えない悲しみと、放クラの方を選んでしまう自己の弱さ、そしてこれからも全裸中年男性を殺したという責任のために、有栖川夏葉は涙してくれるのである。

 ありがとう、有栖川夏葉。反転させなければならない、人生に一点でも苦痛が存在するのであれば生まれるべきではない、ということを。人生の最期の瞬間に一点でも報われる瞬間があれば、それでいいということを。ブルジョアが貧民の気持ちを理解する日が来るということを。

だが、現実にはそんな瞬間は現れないし、女は男を裏切るし(ありがとう)、有栖川夏葉はいないのだ。

 だからこそ、唯物論を徹底しロマン主義へと至らねばならないのである。

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