加速主義を支持することは左翼特有の現状肯定の冷笑ではない(冷笑の超克あるいは女性声優の結婚)
日高里菜が結婚した2024年1月1日、我々はこう表明しなければならないだろう。『幸せならOKではない』、と。
加速主義はもう終わった思想なのか?誰かが言っていた「ユリイカにまとめられたときがカルチャーの終焉だ」というように、加速主義、もとい80年代リバイバルは2023年急速にその姿を消したといっても過言ではない。他方、流行ったのはdariacoreであった。明らかにdariacoreが意識された原口沙輔の人マニアは今年を代表するボカロ(まぁボカロとさせてくれ)だろう。弱者男性論を堂々巡りするしかない現状、加速主義がサァなどと言っているのはごく少数で、大半はブルーアーカイブのエロ絵をRTする毎日なのである。
加速主義は終わった思想なのか?そしてそれは現状肯定のプチブル仕草なのか?それは断じて違うだろう。それは思想の本質は「祈り」にあるからだ。
というのは、ある部族の話を例に出したほうが早い(出典忘れた)。その部族は太陽が登るのは自分たちの部族が毎日太鼓を叩いているからだと考えている。そのため、彼らは毎日太鼓を叩き、太陽が登るのは自分たちのなした業だと考えてている。我々現代人かすれば何を馬鹿なとしか思えないが、加速主義も全く同じなのである。いずれ崩壊へ向かう資本主義であったとしても、自分が祈ったから崩壊が来ると信じているのである。
人生で出会ったすべての人と再会するときが来る。好きだった人も、嫌いだった人も。そのときには、すべてが、ゆるされている。そして、愛と喜びを語り合う。そういうときがくる。今ゆるされなくても、そのときにはゆるされる。今ゆるせなくても、そのときにはゆるせる。
そういうときがくる!