3歳までの私のこと♡
私のこと少しずつ♡
現在50歳になった私が3歳までの私のことを、覚えてるうちに書き残しておきたいと思います。
3歳までの私のこと♡
我が家の兄弟は5つ上の兄と、9つ下の妹がいます。
私は物心ついたころから私の兄は、もしかしたら親が違うんじゃないかな?と思っていて何となく両親に赤ちゃんの頃どうだったか聞くこともなく育ちました。
私の子ども達が、出産の時やその頃の様子を聞きたがります。それで、誰もが自分の出生の様子に興味を持ったりするものだと知りました。
私が3歳までの私のことを知ったのは22歳になるという時でした。仕事の研修で成績上位者に与えられる報奨、なんとサンフランシスコ行きの資格を獲得してパスポート取得のために戸籍が必要となりました。
帰宅してママに言いました。
するととても慌てて「パパに聴いてからね。」と言うので変なの。と思いましたが深く考えず夕食の支度を手伝い、祖母の介護を手伝い、妹の相手をしていつもの家族団欒。
変わらない日常が数日経過して、いつもの時間に帰宅して、なんだかいつもと違う空気を感じました。怖い感じもしたので部屋でモジモジしてました。両親から「お話があるから、居間においで」と呼ばれて、居間へ。
慎重な面持ちでパパが話し始めました。
我が家はコテコテの亭主関白でパパが右と言ったら右。このときも、独壇場だろうと思いました。深刻な表情のママがその時「パパ、このお話は私からしたいわ」と初めて前に出るママを見ました。「そうだね、それがいい」パパはきっとその後も発言したと思いますが、印象に残らないほどママが強かった。
loveちゃんとお兄ちゃんは、私が産んだ子じゃないの。産んでくれたお母さんはこの人よ。
と戸籍を取り出し説明が始まろうとしたんですが、私思わず笑っちゃって。ビックリしすぎて笑っちゃって。とりあえず3人で笑いあいました。そして落ち着いた私はこう言ったのを覚えてる。
誰から産まれてもママは私のママだよ。
ママ号泣でした。。。
私は、泣きはしなかった。でも驚いた。
お兄ちゃんはママが産んでない気がしてたけど
私は違うって何だか思ってて。
The日本男子で亭主関白の父親が何故、私には「パパ」「ママ」と呼ばせていたのか、も実は不思議でしたが理由はこの時知ります。
私は生後数ヶ月、産みの母親に育てられますが母親は、父親の仕事の帰りの遅さに疑惑が募りノイローゼになりました。
二人は出逢ったとき、公立高校の土木建築科の教員(父)とその高校の図書館の書士(母)でした。交際期間と、新婚当時は教員だった父は一念発起して起業しました。設計士、エンジニアとして独立したのです。高校教師だった頃とおおきく変わったのは帰宅時間だったそうです。
手書きで設計図が納品されていた時代。徹夜での作業もあったとのことですが、元々内向的な性格の母は不満を言うことも、早く帰ってきてほしいとかも、言えなかったそうです。
架空の悲しいストーリーを作ってしまったと聞きました。きっと帰りが遅いのは外に女性がいるんだという…思い込み、って怖いですよね。
この思い込みのお話は、産みの母親から直接聞いたことです。あの頃はおかしかったのよって言ってました。あなたのお父さんは素晴らしい人だとも言ってくれて嬉しかった。
思い込みでノイローゼになった母は、生きていることさえ辛かったそうです。
赤ちゃんだった私を道連れに、と思い詰めて未遂も起こしました。
私、いま生きてることに本当に感謝です!
そういった状態では、夫婦でいることも、母親を続けることも無理だと判断した父はシングルファザーになりました。
そこで、問題になる男一人での子育て。
父はドライと言えばドライ過ぎるくらい決断力も早くて、即座に兄と私を佐渡島と埼玉に預けます。
佐渡島は父の生まれ故郷、まだ40代の祖母が兄の母親替わりをしました。兄は幼稚園児です。
埼玉には父の姉と義兄、私からみると伯母夫婦がいました。私は乳飲み子です。
どんなに大変だったことか。
祖母と伯母夫婦本当に感謝です♡
これ以上の言葉見つからないですが感謝です♡
私にはここで、埼玉の親が出来ました。
生まれたばかりの赤ちゃんです。
埼玉の親は「お父さん」「お母さん」と教えて育てました。従兄弟が2人、私はその2人をお兄ちゃんと呼んでたそうです。
私が3歳になる頃、大人たちは話し合いました。
父に再婚相手ができて、その女性が子どもを育てても良いと申し出てくれたのです。
先に、兄が引き取られました。
小学校の入学式には間に合わず、兄は一旦佐渡島で小学校に入学します。そのときの写真が家にあったので、私は兄は怪しい。と想像を膨らませていました。笑えます。
私をどうするか、悩ましいポイントは兄と違って記憶が埼玉からしかなく、伯母が思ったのは3人兄弟としてそのままでも良いかもしれないということでした。ところが、兄が私に拘ったそうなんです。
「兄弟は一緒じゃなきゃ嫌だ」って言って聞かなかったと。
埼玉の家に、パパ、ママ、お兄ちゃんが迎えに来たとき埼玉の兄たち特に長男はパパに怒って怒って仕方なかったそうです。loveちゃん愛されてますね。
引き取った後、どれだけお父さんだよ、お母さんだよ、って言っても私は首を横に。
困って結果、パパとママで落ち着いたそうです。
知らなかった。
知ってから、それまでのハテナ(´・ω・`)?は繋がっていきます。
私がある程度大きくなって、パパとママって呼ぶのを無理にお父さんお母さんに変えようとしたときの、埼玉の伯母の寂しそうな顔と、おばあちゃんがパパとママでいいっちゃ(佐渡便)と言い放って呼び方変項を止めたこと。
埼玉の家に遊びに行くと、兄たちが私をサンドイッチしてくる。距離が近い、3人の兄がやたら優しい合戦を繰り広げる。
埼玉の長男兄はいつまでもパパに挑戦的。
佐渡島では兄は幼馴染がいる、私には居ない。
ある秋にママが妊娠しました。
私はずっと「妹ほしい」と、お誕生日もクリスマスも言ってたほどですので飛び上がって喜びました。今でも強烈に覚えてるのは「お兄ちゃん、産んで良い?」って聞いたママの深刻な表情。お兄ちゃんがなんて発言したかは忘れたけど、もちろん答えはOKで。
ママがパパに抱きしめられながらワンワン泣いてた。ちょっと不思議だったんです。
兄の承諾を得て大泣きするほどホッとしてる意味がわからなかったから、、、
お兄ちゃんは凄いんです。
その凄さは、計り知れない。
5才で佐渡島に預けられ、8才の時に「loveちゃんのこの事は一生、誰にも言わないこと」を条件に私を埼玉に引き取りに来て、それから私が知る時まで本当に黙ってたんです。
お兄ちゃんは知ってるのよ。とママが言ったとき一番可哀想だったのはお兄ちゃんよ。とも言ったのも、忘れられません。
私は何も知らずに守られて生きてこれたことを感謝した22歳の夏でした。
秋にはサンフランシスコに旅行、なんだか当時を思い出すとフワフワという感じです。
出生に秘密があって、佐渡と埼玉とで、ひた隠しに隠していたとは。それを知っても、まだ産んでくれた母に会えてなくて信じられず、フワフワ。といったところでした。
その後、産みの母親とも再会しましたが、それっきりです。
ママは、その後のお話になりますが、パパの会社が倒産後、離婚して、、、なかなか会えてません。
でも事実、3人の母が居てくれて私が居ます。
埼玉のお母さんとは今でも文通したり、電話したり交流があり、3歳までのお話もよくしてくれます。
私は、どこに連れていっても人懐っこく、愛されて良い子だったよ。と。
躾は私がしっかりしたから、右手でお箸と鉛筆持てるのよ。と。
時々、私のおかげよ、と主張されると嬉しくなります笑
でも、そのままずっと育ててもらってたら絶対反抗して喧嘩もしたと思います笑
3歳までの私のこと♡
いかがでしたでしょうか?
最後まで読んでくださいまして、ありがとうございます(⌒‐⌒)
3歳からとのママとのお話、パパとのお話は
また次のマガジンで。私のこと少しずつ♡