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愛されていないということは、自由であるということ
こんな時間にチェダーチーズのポップコーンを一袋食べた。
でも許そうと思う。
それで済むのなら。
ブログを書き始めたお陰で生命力が少し戻ってきて、お陰でやりたい事が色々と産まれた。
せっかくやりたい事が産まれたのに、やりたくない事(=労働)に取り組まなければならないこの現実を、私は受け止められない。
時間はかかるかもしれない。でも、私がこれから産み出すものは、社会に貢献できると思う。
だからやりたくない事に取り組んでいる時間もなければ、エネルギーもないの。
ただでさえ体力がなくて、やりたい事すらろくに進まないのに。
就活=やりたくない事に取り組んでいたせいで時間も体力も失って、ブログの更新が1週間以上も空いてしまった。何が「毎日更新」だよって笑うよほんと。
少しの就活でこんな状態なのに、ここに労働なんて始まってしまったら、ますます進まなくなる。
あまりにも進まなくなって、もう嫌になって止めてしまうかもしれない。
私がこれから産み出すものが社会貢献になるのなら、神様とか守護霊様とか、目に見えない存在の助けが入るのだろう。
しかしその助けが入らないということは、私がこれからやる事は、きっとその程度のものなのだ。
私は役目のある人間ではないのだ。
だからやりたい事をやろうとしても、社会や世界に広がる大きな利益にはならないので、誰からも助けられない。
誰からも助けてもらえない、って、誰からも愛されていないのと同じ事。
でも、お役目のある人はある人で、大変なこともある。
人より苦労が多かったり、自分の使命以外のことに取り組もうとすると、例えそれが自分の好きな事でも、邪魔が入ることもあるそうだ。
私のブログの文章に表れている通り、私にはたくさんの苦労を乗り越えられる力量なんてとてもないし、好きな事ができる自由がないのも耐えられない。
そう考えると、役目を任されていない・愛されていない、ということは、同時に「自由」である、ということだ。
何をしようが、何もしまいが、自由。
助けてもらえない代わりに、私はそれを得ているのではないかと思う。
って、自分に言い聞かせていますけど。
どうしても、嫌なものは嫌なんですよ。
納得はできないんですよ、今のところ永遠に。
散々わめき散らした。(心の中でね)
何で働かなければいけないのか。
どうしていつもお金のことで悩まなければいけないのか。
せっかく生命力を取り戻してきたというのに、私からその生命力を奪うのか。死ねってこと?
こういうことが起きるから、生きてる意味も生かされてる意味もわからないっていう思想になるんだろうが。
私が幸せになれば、私の周りの存在も幸せになる。
周りが幸せになれば、その周りも幸せになって、幸せの輪が広がっていく。
だから私の幸せ=世界の幸せ、のはずだ。
何故助けない?
世界平和を望んでいないのか?
大っ嫌いだ。
人生も世界も。
誰に向かって言っているのかはわからない。
けどとりあえずわめき散らした(二度目だけど心の中でね)。
まだ納得はしていないし、できないならできないで構わない。
でも、じたばたするのにも、エネルギーが要る。
疲れてきたので、仕方なく受け入れている。
愛子