「選択的シングルマザー」という言葉が作り上げる世界の壁
ここ最近、〝選択的シングルマザー″
という言葉を聞くことがあります。
定義としては、敢えて結婚せずに、シングルのまま子どもを産むことを選んだ女性のこと。
以前は女性に稼ぐ力がなかったり、子どもを育てながら働く場所がないため選べなかった”結婚せずに1人で子どもを育てる”という選択が、
女性が活躍する時代背景とともに可能になっている、ということが語られています。
確かに、そこに登場する女性たちは、みんなハイキャリアで、収入もあり、自立しています。
一昔前までのシングルマザーのイメージを変えるような生き方、ということは事実だなぁと思うわけです。
本当に選択的なのか?という問い
ここだけ切り取ると、女性の社会進出が進み、なんだかますます自立的に颯爽と世の中を渡り歩いてゆく女性の姿が想像できます。
生き方の選択肢が増えることはとても大事なことです。
でも実際に、よくよーくこういう記事を読むと、
”私は結婚を前提としていたが、相手とその部分で折り合いがつかず、結婚に至らなかった”
みたいなことがすら~って書かれていたりするのです。
…ん?
なんだろう、この違和感。
正直、違和感しかありませんでした。
何かが違うんじゃない?
彼女は本当に1人で産むことを望んで選んだのかな…
事実はもちろんわかりません。
でも、これがもし彼女に稼ぐ力がなくて、ハイキャリアでもなくて、
同じ選択をしていても、彼女は”選択的シングルマザー”と呼ばれ
記事にされていたのだろうか…
むしろ、キャリアがあってもなくても、どんなに勉強をして、いい大学を出ていても、”授かった子どもを育てていくパートナーに恵まれないことがある”というのが事実なのではなかろうか…
女性ってそういう点では、どんなに稼いで社会で活躍していたとしても、
子どもを産み育てるという場面においては圧倒的な弱者になる瞬間があるってことなんじゃないのかな…
自分がシングルになったときに感じた、急に社会に放り出されたような
心細い感覚が蘇って、なんだかとても、もやもやしてしまいました。
それでも子育てを1人でさせたい世の中
これは完全に私の本音なのですけれど、日本はまだまだ、子どもを1人で育てられるほど開かれた社会ではないと思っています。
もっと言うと、大前提、子どもを1人で育てるなんて無理なんです。
私だって、たしかに1人で2人育てているので、シングルはシングルです。
でも、両親も近くにいるし、前の旦那さんもサポートしてくれるし、シッターさん、保育園、民間学童、ともう使える人の手はフル活用してます。ワンオペに見えて、超マルチオペレーションです。
もちろん、人手だけであれば、お金があれば解決できる部分もあります。
シッターサービスもたくさんありますし、以前に比べれば圧倒的に充実しています。
だけど、それらを使って全部外注して1人で育てるには「ちょっと稼いでる」なんてレベルじゃ到底無理なんです。
「相当稼いでいる」という状態でなければ、バリバリ働き、お金も潤沢にあり、自己実現も子育てもできてます、なんてとてもじゃないけど言えないです。
それに、人手の問題以上に、心の問題もすごく大事です。
経済的に自立しているれば、子どもを1人でも育てられる、というほどシンプルな問題ではないです。
子育てはハードの部分と、必ずソフトの部分があります。
稼いでくる人と、子育てのタスクをこなす人、という役割ベースの
ハード面だけで子育てを考えようとするのは、本質的に「男は仕事、女は家庭」という価値観となんら変わりがないんじゃないかと思うんです。
確かに子どもは社会のいろんな影響を受けて、勝手に成長していく
部分はあります。
でも、やはり成人して家を出ていくまでは、圧倒的に支えなければならない存在であることには間違いありません。
そしてまだ未熟な人間を、母親だからいつも完璧に支えられるわけでもありません。子どもは基本的に空気なんて読まないから、支えてほしい時は、全力でぶつかってきます。
それを受け止めるには、何より自分の心に余裕がなければ絶対できません。そのためには母親だって、誰かに支えてもらう時も必要なんです。
”選択的シングルマザー”の一番難しいことは、育ててみないとわからないソフトの部分を、育てる前に決めるということだと思うのです。
バツイチ子持ちのシングルマザーとは、状況が大きく違うということを、
どこまで周囲が理解しているのか、ということに危機感を覚えるのは私だけなのかなと思うわけです。
誰もが社会的弱者になりうる
そういったことを全部包含しても、”選択的シングルマザー”を、自立した大人の女性として表現しているなら良いと思います。
それだけ葛藤を抱えながら生きてる時点で、
人生経験は豊富にならざるを得ないから、自立していると思います。
だけど、その言葉によって、
自立の定義が経済的自立だけにフォーカスされてしまったり、
自立とは他者に頼らないことだ、という偏った考えに追いやられてしまって、
弱音を吐いたり、弱さをひた隠しにしながら生きる世界があるのだとしたら、それはなんだかとても寂しいことだなぁと思うのです。
弱者であることは、別に罪でも無いし、隠すことでも無いと私は思います。
みんな社会で生きている限りは、いつもどこかで、弱者になることと隣り合わせなのだと思うのです。気づかないだけで。
それなら、そんな弱さを互いに理解した上で、補完しあえる関係であることの方がずっと豊かで、ずっと温かいんじゃないかなぁと。
ちなみに、余談ですけれど、
私の周りには、シングルで子供を抱えてアフリカに移住して、日本とは全く違う環境で起業してご機嫌に生活してる友達や、
バツイチ子持ち状態で、訳アリの人を好きになり、好きになったからにはあなたの子が産みたい!と、結婚せずに、シングルのまま1人で2人育ててる子もいます!!
要するに、事実は美談なんかよりもっとぶっ飛んでいて、
選択に一貫性や論理性なんてなくって、むしろ混沌としていて、
たまにぐちゃぐちゃになりながらも、自分の幸せに貪欲で素直なんだってことです。
それぐらいの気楽さと、無邪気さがあっていいのだと私は思います。
きっと彼女たちだって、そうやって生きてるはずなんです。
そういう葛藤を、もっと出していける世の中になったら、もっとみんな楽になるのになぁと思いに耽る休日でした。