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須磨浜にて 第78番 #百人百色
淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関もり
≪現代語意訳≫
淡路島から行き来する千鳥の鳴く声のせいで、幾夜目を覚ましたことであろう、この須磨の関守は。
(本文2033文字 ルビ含む)
踏みだすたびに応える砂の音が貴子にあの頃を思い起こさせている。大層な年月を経たからか、老いた足元をひとつ歩ませるにも幾分重く感じ、やれやれと思う気持ちはあるものの、あの頃と変わらぬ白砂青松のこの佳景が、それでもゆっくりと歩を渚まで運んでいく。
眼前には淡路島を遠景に備える穏やかな海が広がる。波頭低く寄せる波は心地よく響き、間近まで穏やかに潮の香を放ちながら滑らかに砂を洗う。盛夏であれば多くの人で賑わい、狭く感じる東西二キロメートルに満たないこの砂浜も浅春の今頃では訪れる人はまだ少ない。
鉢伏山の裾野と淡路島北端の間には明石海峡大橋が垣間見える。切り取れば一枚の写真に納まる景色ではあるが、この浜の端までも歩くのは無理と、かぶりを振るほど今の貴子には広遠に見えた。
振り返ればこの浜をずっと眺め守ってきたであろうクロマツが群生し、羽衣がかかったやもしれぬその枝を誇らしげに張り出している。まさにここは千年前から歌に詠まれる景勝の地であり、貴子に慕わしさを思い起こさせる場所であった。
「そういえば、ここと淡路島を詠んだ歌があったよね。百人一首で有名なやつ」
隣に腰を下し眼前の海と島を眺めながら若き日の正明はそう貴子に訊いた。
「『淡路島かよう千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守り』よね?」
貴子はすらすらと歌を空で詠んだ。
「ああ、それそれ。中学の時に覚えさせられたのに忘れてるよ。さすがだね貴子の記憶力は」
彼の言いように貴子は少し意地悪さを感じたのか「私が国文専攻なのを忘れた? まあ、貴方は頭の先からつま先まで理系だからね。まるで鉄とコンクリートでできた橋みたいに」と返す。
「随分だなあ。いくら僕が橋を架けているからといっても、この景色をみて和歌の一つも思い浮かべないわけじゃないよ。確かに忘れてたけど」正明はそう言って貴子に笑みを投げた。
正明は本四架橋公団の淡路岩屋と垂水をつなぐ、当時世界一の釣り橋を建設するプロジェクトに参加する施工管理の技術者であり昭和63年の着工から関わっていた。東京に住む貴子と神戸に単身赴任する正明の結婚生活は橋の着工と共に始まり、もう八年の歳月が流れている。その間、貴子が神戸に訪れてはこの須磨の浜を二人で訪れたのであった。
歌では流刑の地でもあった須磨の関所の役人が恋しい人を想う様子を詠んだのかもしれないが、自分達はここが逢瀬の場所だと互いに思っていた。そしてひと時、潮の香と千鳥の声を楽しんだものだった。
そんな中、正明は橋の竣工を前にしてシンガポールでの大型プロジェクトに参加を命ぜられ、貴子はそれを機に正明と日本を後にし、大橋の完成を海外で祝うことになる。10年以上の長期にわたり、途中震災の影響もありながら、世界一の釣り橋を工事中死亡事故ゼロで完成させたのだ。貴子は正明を誇りに思うことを誰に対しても憚らなかった。
そんな幸せを打ち砕いたのは異国での事故だった。ある日の朝、笑顔で家を出た正明は二度とその笑顔を貴子にみせることはなかった。
ただ1人帰国した貴子は彼との時間の短さを、ただただ悔やんだ。子供のいない二人であったがゆえ、それが寂しく自分を責める時もあった。彼女が穏やかに時を過ごせるようになるのに、彼との時間の倍を超える年月が過ぎていた。
そして今、貴子はこの浜に来ている。逢いたくても逢えぬ最愛の人はこの地に来ればと彼女は思う。こうして砂浜に腰を下し、隣の彼に歌を詠むのだ。
『友千鳥 諸声になく暁は ひとり寝覚めの 床も頼もし』
「ねえ、この歌もあなたは知らないでしょ? 源氏物語のなかで光源氏が詠んだ歌よ。源兼昌はこの歌を元にしてあなたが忘れてた歌を詠んだと言われてるのよ」
貴子はまだ冷たい砂を一握りし、そして砂時計のように握る手から少しずつ砂を落とす。
「その歌はどういう意味なんだい?」彼が訊ねたような気がした。
「歳をとって都から隠棲した光源氏がね、千鳥の鳴き声を聞けば独り寝の寂しさにも心強いっていうような歌よ。まさに私にピッタリ。この場所も」
貴子は幾らか掌に残る砂粒を掃いながらそう言って浅く息を吸う。それでも潮の香はあの時と同じように香る。
「いやいや、こんな僕もさあ。いつまでも貴子を寂しくさせてちゃいけないなあ。千鳥も寂しくて鳴いているんじゃない。君にあえて嬉しくて鳴いてるんだよ。そう聞こえないかい?」
「そう? そんな風に光源氏にも聞こえたのかしら?」
貴子はそう呟いて、沖行くつがいにも見える二羽の鳥を目で追った。
波打ち際で声をあげ遊ぶ親子連れが肌寒いなかでも暖かに映る。幼い子の笑い声が千鳥の声と混じりあう。
今、遠くに見えるあの橋は海を越え人々を行き来させている。
それでも私達はこの空を行くんだと貴子は思うのだった。
完
Sumahama
The Beach Boys
三羽 烏さんの百人百色の企画に参加させていただきました。
宜しくお願いいたします。
私は第78番です。
どなたか絵で参加してください。