小説「オレンジ色のガーベラ」第1話
【あらすじ】
断薬カウンセラーのちひろが旅の途中で出会った少女みずほ。ある日みずほが断薬相談室「断薬サポート 勇氣」を訪れる。そのみずほの口から発せられた言葉は今までの常識では考えられない夢だった。見えない存在――靈存在と精神医療についての常識を変えたいというものだった。
世間の当たり前をフレッシュなパワーで切り崩していこうとするみずほと、なんとか自分を納得させながら慎重に前に進もうとするちひろ。そして、薬の害を直感的に見抜きながら母と断薬相談に真也という少年。3人を中心として紡ぎ出される新しい価値観への挑戦とは?
第1話
その頃も旅をしていた。
今と違い、金があり時間がなかった。だから、綿密な計画を練ってから家を後にした。そうでないと、自ら望んだ旅はできなかった。
いや、出来ないと思い込んでいたのだ。
そう。あのときも。
みずほという少女と出逢ったあの夜を昨日のことのように思い出す。雨に濡れ、バス停でぽつねんと立っていた。
傘を持っているにもかかわらず、みずほはさしていなかった。
「あなた、濡れているけど、大丈夫?」
わたしは、ありきたりな言葉で声をかけた。
少女は口を開かず、やっと遠くで見えてきたバスのほうに首を向けた。
お下げ髪の先からはしずくがたれており、白いブラウスは絞れそうなほどだ。
わたしは着ていたカーディガンを少女にかけた。
少女は初めてわたしを認め、ありがとうと言ったようにみえた。
到着したバスから降りてきたのは、中年の男性だった。
「うちの娘が、なにか?」
礼儀正しい言葉の中に、訝しげなニュアンスが含む。
「あ、はい。お見かけしたお嬢さんが、あまりにも雨に濡れていたので……。」
「それは失礼しました。
娘には自分の傘も持ってくるように伝えたのですが。なぜかわたしの傘しか持ってこなかったようですな。その傘をさしていればよかっただろうに。
みずほ。わたしと一緒に傘に入っていきなさい。風邪をひいてしまうよ」
みずほと呼ばれた少女は、しおらしくうなずく。
そして、ちらっとわたしを見た。その視線は、先程からの弱々しさとは真逆の強い信念を持った眼差しだった。
わたしはそのまま旅を続けた。
みずほという少女のことは頭に残っていた。しかし、日数に限りのある旅をしているわたしに、立ち止まる余裕などなかった。
旅を終えた数日後、わたしのオフィスに一本の電話がかかってきた。
「はい。断薬サポート 勇氣です。」
「あの……。カーディガンを返したいのですが。中川ちひろさんでしょうか?」
カーディガンと聞いて、なんのことだろうと?逡巡した。しかし、すぐにあのバス停で濡れそぼっていた少女だと思い至った。
「はい。そうです。
お名前を伺っていいですか?はい。岸本みずほさんですね。こちらにいらっしゃるのですか?場所はお分かりになりますか?
え?建物の目の前?
分かりました。お待ちしています。」
こちらは全く心の準備が出来ないままのご来訪だ。
とりあえず深呼吸する。
新規のクライアントではないとはいえ、ゆるいままの自分では対峙できない氣がした。
数分後、オフィスのドアが軽やかな風と共に開いた。
「こんにちは。岸本みずほと申します。先日はカーディガンを貸していただき、ありがとうございました。今日は返しに来ました。
これは母から預かってきました。よろしくお伝えくださいとのことです」
きれいに畳まれたカーディガンとともに、高級そうな菓子折りが目の前に顕れた。わたしは一切菓子を食べないが、無碍に断るのも失礼だろう。甘いものに目がない友人の顔が頭に浮かんだ。
「ご丁寧にありがとうございます。お時間ありますか?
よかったらお茶でもいかがかしら?お氣に入りの緑茶を飲んでもらえたら、嬉しいんだけど」
「緑茶ですかぁ?嬉しいです。どこに行ってもコーヒーとか、大して美味しくない烏龍茶とか。日本人なんだから、お茶と言ったら緑茶でしょ?と声を大にして言いたいです!!あ……!」
「あははははは!!!」
目尻から涙が滲むほど大笑いをしてしまった。
このみずほという少女、折り目正しい娘かと思ったら、芯をしっかり持っている女の子のようだ。
「ご、ごめんなさい。なかなか外で美味しい緑茶飲む機会なんて、無くて……。
うわぁ。急須で淹れてくださるんですか?嬉しい!」
私がお茶を淹れるのを、目を潤ませながら見つめている。今の時代、こんな子もいるんだと改めて感心してしまう。
「ふぅ~。やっぱり日本人は緑茶ですよね。カテキンがたくさん入っていて。日常的に抗酸化作用のあるもの飲めるのに、なんで皆んなお茶飲まないんだろう?わたしは不思議で堪らないです!」
さっきまでと打って変わって、緑茶愛を語っている。どれほど緑茶が好きなんだ?
「事務所まで持ってきてくださって、ありがとうございます。みずほさん、よくここがわかりましたね。」
「はい。先日、中川さんの姿をお見かけしたんです。ネットのインタビュー記事で。それで、検索してこちらのオフィスを見つけました。
家からはちょっと遠いけど、来れない距離じゃないから。せっかくなら会いたいし……。」
ん?会いたい?
遠方からカーディガンを返しに来たのは何か話したいことがあるのか?
「あの、実は……」
みずほは一口緑茶を味わってから、ぽつりぽつりと語り出した。
みずほは物心がついた頃から、靈が見えるのだそうだ。特に怖いと思ったことは無いらしい。
ただ、幼い頃に靈について親に話したら、信じて貰えなかったそうで。それから誰にも話さないようにしていたらしい。
それでも、嫌な靈がいるときは神経を逆なでされてしまう。
つい「出てってよ!」などと叫ぶこともあるという。
そうすると、周りの大人は心配する。うちの娘はおかしいのではないのか?と見えない存在を認めない人々は、見える人の感覚を理解しようとしない。
だから、自分が「見える」ことを人に極力話さないようにしていた。
しかし、高校に入った頃から、嫌な感じのものが「見える」頻度が多くなった。いわゆる、悪魔悪霊の類である。
寝ていてもうなされる。
夜に突然叫び声を上げる。
とうとう、両親が心配して病院に連れて行った。
心療内科である。
みずほの抵抗虚しく、そのまま入院となった。
長期で入院している人が多い中、みずほはすぐに退院できた。本人は奇跡だと言っている。
「ねぇ、ちひろさん。
わたしね、生きていることに感謝しようって決めたの。
どんなときも。薬飲まされても。そうしたら、すんなり退院できたんだ。
びっくりしたんだぁ。
他の入院している人達はね、20年30年ずっと病院暮らししている人もいたんだよ。だから、そんなに早く出れるなんて思ってもみなかった。
ありがたいよねぇ。」
わたしはみずほの言葉に驚いた。
わたしがみずほの年頃のとき、ありがたいなんて言葉を発したことが無かったから。
だから、みずほはあっさりと病院から解放されたのだろう。
全く基準の無い摩訶不思議な場所から出るには、どこにでもいる普通レベルでは無理な話だ。
感謝する日々?
わたしは耳を疑った。
わたしもそうしたいと思う。でも、なかなかできないもどかしさに、日々七転八倒している。
氣がつけばため息が零れていた。
みずほに覚られただろうか?
「それでね、ちひろさん、本題なんだけど……」
その声にハッと我に返った。
「わたしね、今の精神医療の体制をひっくり返したいんだよね!」
え?今、なんとおっしゃいましたか?
「ちひろさん、聞こえていますか?わたし!今の日本の精神医療の考え方、医療体制を丸っきり変えてみたいんです!!!」
その大胆な発想に一瞬呼吸が出来なくなったかと思った。
続く
(あらすじ252文字・第1話2,892文字)