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「毒親」「ヤングケアラー」という言葉に救われて。

「毒親」
「ヤングケアラー」
最近、この2つの言葉が広まってきて、救われている。
どちらも、私の〝身の上話″だったから。

「毒親」からみの体験談を発表する人が増えて、それらを目にするたびに感じる既視感に戦慄した。
なんというか、パターンが非常に似ているのである。

相関関係にある「毒親」と「ヤングケアラー」

「毒親」と「ヤングケアラー」は2022年の今、それぞれ別のテーマとして語られている感があるが、経験者として相関関係にあると思っている。

子どもにヤングケアラーを強いる時点で、それはもう「毒」になっているのだし。
ヤングケアラーの「ケア」に対して、そのクオリティやタイミングに親が「文句」を言う行為も「毒」だ。

「ケアが必要な家族がいる」ということ自体はもう、どうしようもない。
それに、誰もが「ケアが必要な存在」になる可能性がある。

そのケアを、就学期にある子どもに担わせてしまうことが問題なのであり。
子どもという未熟な存在のケアの出来栄えに文句をつけることが、問題なのだ。

「家族単位でなんとかしてください」という国家のスタンスこそ、どうにかしてよ、だという論調だけれども。「家族の誰かが担うことで、対処する」という選択をしていることに、「とりあえず回っているからいいか」と甘えてしまう、その家族の保護者たちにも問題がある。

「なんとか回っている」という状況だから、国家も動かないわけで。

卵が先か、ニワトリが先か、になってしまうけれど。割りを食うのは「回している人」だ。

『このままでは、いつか殺ってしまう』

色々あって、私自身は今、親きょうだいと距離をとっている。というか、音信不通を決め込んでいる。

詳細は省くが、親きょうだいが私のことをヤング時代はもちろん、ヤングでなくなっても「ケアラー」としてアテにしていたことに、中年になって気づいたのだ。しかも、中年の私は経済面でもアテにされるようになっていた。

「ケアラー」としてのミッションを果たさそうとしない、ということを激しくなじられた。しかし、その当時、私は仕事そのほかの色々が重なっていて、精神的にも経済的にもギリギリだったのだ。

すでに、トータルで200万円ほど、親に渡していた。親が私を育ててくれた際にかかった費用に比べれば、たいした額じゃないのは知っている。しかし、今を生きる私には大金だ。

決して余裕があるわけでもないのに、経済的な援助をしていたのに。激しくなじられる、という理不尽。

さらに、親自身も老齢になり、「私のケアをしてくれるんでしょうね」というムードを、言葉の端々に醸すようになっていた。

「生涯ケアラーとしては生きられない」

それは、「やりたくない」というレベルではなくて。このままでは確実に、私の心が壊れるという予感があっての「できない」であった。

暴言系の毒親なので、しばしばカッとなって怒鳴るということがあった。最後の会話で、生まれて初めて私は怒鳴り返した。そのとき、自分の中に「カッとなってやりました」と動機を述べる、犯人の気持ちを理解できる感情が芽生えた。

怒鳴り、わめきちらしている親を、ただ黙らせたいという理由で手にかける自分を、ありありと想像できたのだ。

『このままでは、きっといつか殺ってしまう』

それが、私が音信を絶った理由だ。今、考えると、当時もすでにけっこう心が壊れていたな、と思う。

「老親の介護」を語り合う女性たち

先日、行きつけの店で食事がてら「今週もおつかれ! 乾杯!」をしていたら、仕事帰りの同僚であろう女性2人客がやってきた。

さほど広くないカウンターだけの店なので、2席の空席を挟んで座った2人の会話は自然と聞こえてきた。
「こんどの夏休みは帰省するの?」
といった会話から、どんどんテーマは「お互いの老親のこと」になっていっく。

30代後半から40代前半ぐらい、と思しき彼女たちは自分と配偶者のそれぞれの親が介護が必要になったらどうしよう、という話をしていた。

「仕事を変えて、移住するとかして。面倒をみることになるんだろうな」と覚悟を決めている2人に、私は驚いた。

そんな風に思えるって、どんな素敵な親御さんなの?
仕事を変えて移住って、そんなに簡単に決められることなの?
っていうか、そもそも、介護って自分の人生を変えてまでやることなの?

彼女たちが、心から納得していることなのか。それとも、「そういうものだから、しょうがないよね」と思っているのか。親が「毒親」ではなく、「ヤングケアラー」でもなかったらそういう風に思えるのか。

いろいろな思いが脳裏を駆け巡りながら口にしたビールは、いつもより苦く感じた。

生涯「ケアラー」ではいられない

ヤングケアラーのケアの対象は、祖父母や親、きょうだい、とさまざまである。それぞれに大変さはあるが、祖父母や親の場合、天国への旅立ちによってケアが終了する。しかし、きょうだいの場合、寿命はだいたい自分と同じ。つまり、生涯ケアが続くことになる。

加えて、親が老いることでケアの対象者が増え、重なる時期も出てくることになる。

つまり、生涯ケアラーという役割を背負うことになりかねない。

子どもも持たずに生きていた私は「誰かの世話をする」という体験を十分に積んでいる、とはいえない。けれど、幼くして自動的にきょうだいのケアをしていた当時の、精神的な負担が重かったのだろう。

「もう、十分にやった」

という気持ちになっているのも、事実だ。

その頃、親も親でいろいろ大変だったのだろうな、とは思う。でも、それと同じぐらい、私も大変だった。なぜなら、子どもだったから。

タスクの負担やケアによって勉強や部活動の機会が奪われることも、もちろん問題だ。でも、それだけではない。振り返れば、精神的な負荷が一番の問題なのだと思う。

大人でも、親でも「大変だ」と感じていることを、未熟な子供に委ねるというとがどれほど、残酷なことか。大人は分かっていない。
「クレアちゃんは、しっかりしているからお母さんも安心して任せられるわね」
などと、近所のおばさんに褒められたところで、複雑な思いをするだけだ。

『好きで、しっかりしているわけじゃない。仕方なく、しっかりしてしまっただけ』

そう語れるだけの知性も語彙力もなかったけれど。当時、私が抱いていた気持ちはそれだった。

「ヤングケアラー」が問題視されるようなった今。私のような思いをする人がいなくなることを願いながら。同時に「ヤングケアラーを強いる親はその時点で『毒親』だ」という認識も。「しっかりしていて偉いね」などという言葉は、なんの慰めにもならない、ということも広まって欲しいな、と思う。


















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