治療者をやめた理由


私がどんなに真摯につとめても、
彼らが退院した先の人生に関与することはできない。
私がどんなに彼らを愛しく思っても、
「治療者」として関わり始めたからには、
関わりにある種の制約が加わる。
彼らにとっての「唯一無二の誰か」になることはできない。
なぜなら私には「次の患者さん」が居るから。
彼らに、その都度、関係の終わり、を味わせることになる。
それはとても残酷なことだ。
それを元にして、自分の人間関係を築けるようになることが、真の治療目標であると、
心を痛めずに言えてしまう治療者のなんと多いことか。

私はそんなふうには思えない。
関わりが深く、濃いものになるほど、「治療者」として線引きをせざるを得ないことに苦しみを感じる。
治療だなんて、恵まれた場所にいる奴が施した気になっている自己満足だ。
奴らは、その檻の外にある彼らの日常が、どんなに過酷なものか知ろうとはしない。
野良猫を半端に餌付けして、無責任に野に放つのと一緒だ。
期待させて、甘い汁を吸わせて、何事もなかったかのように突き放す。
さも、自分が良い事をしてやったかのような顔をして。
私は施される側の気持ちを知っている。
どんなに親身になってくれたって。
一緒にいる時間は、それが本物だと感じられたって。
彼らは私の日常にまで責任を負ってはくれない。
なぜなら彼らにも日常があるから。
私達の関係性は、治療契約という匣のなかでのみ成立するものだ。
それ以上でも以下でもない。
その事実になんど絶望したことか。

その、線引きこそが、外の世界で適切な関係性を築くための礎となるのだと、正論をかざす者は言う。
だけど、外の世界で、私達がその「誰か」に出会えるかなんて、本当に博打レベルの確率でしかない。
希望を抱いた相手が、搾取するだけの悪魔だったなんて話もざらにある。

その不条理を、治療者として、一体どう説明するのか。

見捨てられたと何度も嘆くわたしたちの心を、誰がほんとうに掬い取るのか。

私は、あるときからひとに期待するのをやめて、それで少し楽になった。
だけど、苦しみに悶絶した過去は消えない。
憎しみに身を焼いた過去をなかったことにはできない。

私は、
私は、治療者にすがる思いでその身と時間を預けてくれる彼らに対して、
その場限りの愛情を渡し続けることはできない。
その不条理を、どうしても私自身が消化できない。
きっと今も、世界中のどこかで助けを待ってるひとがいる。
私がせっかくあんな思いをして、乗り越えたり身につけたたくさんのこと、この有限の心と身体で生かしていくなら、
それは私がこのひとと決めた相手がいい。

誰かに割り振られて、退院したらそれで終わり、なんて関係性を無数に繰り返すのはもう嫌だ。

私の気力も体力にも、限界がある。
だから私はもっと照準を絞って、そのぶん一貫して、ひとと誠実に関わりたい。
そのための相手も私が自分で選びたい。
私に与えられた時間もまた、有限であるから。
私は私が自分の力を費やしたいと思えた人とだけ関わりたい。

それが、私が治療者をやめた理由。
病棟にも外来にも、戻らないと決めた理由。
誰に問われたって話すつもりはない。
だけど、あれだけ身を擦り減らしてやりきったのだから、
きっとこの結論が覆ることはないのだろうな、と思う。

私が命を燃やす甲斐のあるひと。
私にできることが最大限に発揮される何か。
それをずっと探している。