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A子さんは捨て駒?~似た手法が見えるよ~

ラブを連れてちょっと離れた生活雑貨の店に行こうと思いました。ペットショップもありますからラブも入れます。リュックは嫌がらず自分から入りました。出がけにタクシーを呼ぼうとしたら電話が使えない!何をどうやっても駄目で諦めました。ラブは、出かけないの?とキョトンとして、その後はふて寝ですよ。私は明日、携帯ショップに行かねばなりません。せっかく帰りは遠足気分で散歩しながら帰ってこれると喜んだのに・・・残念。

昨日の記事の補足になります。
昨日、女性宮家を急いだのも当時の天皇皇后で、内親王に限ると裏で手を回したのも天皇家だろうと書きました。
その根拠となるのがA宮のH21年(2009)年の誕生日発言です。

『皇族の数が今後減るということについてですけれども,これは確かに今まで皇族が行ってきたいろいろな仕事,それから役割が,だんだんそれを担う人が少なくなるということはありますけれども,国費負担という点から見ますと,皇族の数が少ないというのは,私は決して悪いことではないというふうに思います。』

この方の話は回りくどくて奥歯にものが挟まった言い回しが多いですから、よく読まないと分かりにくいのですが、私なりに解読するとこうなります。()は推測です。
皇族が減るから (女性宮家は必要になるだろうが) 基準を設けないと
国費がかかるだろう(だからよく考えて我が家の娘たちだけでよくないか)。となりますよ。

所謂、頂上会議のおよそ2年前には天皇皇后、A宮は綿密に相談を重ねていたと言えるでしょう。

A子さんの話に戻りますが、その前にご両親の関係を押さえておきたいと思います。
下の記事から抜粋します。
『1980年に“ヒゲの殿下”こと寛仁親王殿下とご成婚されましたが、04年以降、ご病気で長らく静養されていた。広く知られている通り、ストレス性喘息などを理由に、信子妃はずっと殿下と別居をしていました。殿下が何度も信子妃の臣戚降下、つまりは離婚を考えたほど、ご夫妻の関係は悪化していたのです。娘の彬子女王や瑶子女王は、殿下を心より尊敬していたので、お二人も信子妃に不信感を抱かれています』
『幼少の頃、寛仁親王殿下の父母にあたる三笠宮崇仁殿下(16年に薨去)や百合子妃殿下への批判を信子妃より聞かされていた。が、ご成長と共に信子紀の言動に疑いを持たれ、不信感を募らせていった』

ご両親は離婚を考えるほど関係が悪化していました。
原因は殿下のアルコールによるDVとか、信子妃のストレス性喘息とか言われてます。この記事を読むと嫁姑問題もあり、一人はアルコールに、一人は心の病になっていたように私には思えます。

A子さんの名前が週刊誌に多く取り上げられたのは、寛仁殿下没した直後の喪主の問題、家の当主問題、父親の実家である三笠宮家の当主と家の問題が多いですね。
信子妃とは、この当主をめぐって争いが激しかったからです。
結果的に喪主はA子さんが行いますし、信子妃は東京に戻っても家には入れず、宮内庁分庁舎を住まいとすることになった訳です。
最終歴には、三笠宮家に合流することになるのですが、信子妃の別居は続きます。

そして、騒動の逐一が週刊誌などで、信子妃の非を中心に大量に書かれたという
この方法は、当時の皇太子妃のバッシングにも通じて見えるのです。
信子妃との離婚問題が取りざたされた流れは、似てると思いませんか。

この下の記事は、寛仁殿下のDV問題にA子さんが反論し信子妃の妄想のように書かれてある記事です。
書いたのは男系男子派、美智子様崇拝で知られる工藤美代子氏です。
この中でA子さんは、父親の「物を投げる、罵倒する、無視する、親族との面会や外出を制限して幽閉すること」がDVではない、「私が見たことがなかったからDVはなかった」「母は嘘つき」と述べています。

読者さんが探し出してくれたもので、2015年の生々しい記事です。
この場からお礼申し上げます。

https://up.gc-img.net/post_img_web/2024/09/87c428c890faf5f2939860ae08b1e0c2_11466.jpeg

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母親が別居してたとはいえ、喪主も娘が行い実質的な当主としてふるまっています。
そうまでして
信子妃を排除したい理由は何だったのかと、今でも不思議でなりませんが、思い当たることが一つあります。
麻生元総理の存在です。
政府の重鎮でもあり天皇家の様々な情報を握っていたでしょう。
その妹である信子妃は、とても天皇方からは都合の悪い存在だったと思います。
特に当時の皇后は秘密が多いですから、信子妃の存在は脅威でもあったでしょう。

さらに、寡婦が家を守るのとは違い、娘が当主になるという事で、その後に結婚問題が起きた時には家の存続が問題になってきます。
政治家たちを動かすには、こうした実績がものをいうはずですから。

三笠宮家に合流することになったA子さん姉妹と母親ですが、
父親の実家である、高齢の祖母の家の存続のための当主争いもあります。
下の記事は。そうした問題と三笠宮家を守っている百合子様が、後継者としてA子さんをと考えてるというものです。

推測ですが
A子さんは、天皇家の方々から繰り返し、
あなたが実質当主でしょうし、女性宮家を作るために協力をして、
というようなことを言われていたのではないですか?
三笠宮家に入り当主となっても、「宮」は名乗れませんからね、
あくまでも、三笠宮家の寛仁親王殿下のご長女、となるのですから。

A子さんにしてみたら、
父親が継ぐはずだった三笠宮家の廃絶は避けたいわけですし、
そうするには自分が後継者となり、女性宮家が決まるのを待つしかなかったと思います。
当時の天皇家に協力することが近道だと考えたのだと思います。
男系男子の父親の考えも引き継いでいましたし、
京都では上皇のご学友、白足袋族のドンともいえる有馬管主の後ろ盾もあります。

当時の天皇家側からしたらA子さんという存在は、
目の上のたん瘤以上の脅威の信子妃を追い出し、
女性宮家の道筋をつける駒の一つという、便利な存在であったろうと私には思えます。

長くなりました。
今日はここまで

       今日も読んで頂きありがとうございます。❤️

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