2⃣平成の受胎告知 ~受精卵を得る裏で行われた苛め~
今日は朝から濃霧で、まるで釧路のようです。日差しが遮られ寒いです。時々船の汽笛が聞こえます。朝から私のソファの椅子取り合戦ですよ、負けるのは私のほうが多いですよ。トイレに私が立つとラブもトイレに・・女子高生じゃないんだからあ、というと怪訝な顔をしてますわ。
最近は悠仁さんの進学先のニュースがにぎやかですね。
北大の話も出てましたが、日常生活の自立ができていない方に親元離れての生活ができるはずもなく、医療が必要な状況の誤魔化し情報だろうと思いますよ。お姉さん方も自立できた生活ができてるとは、思えませんしね。
紀子さんという方は、見た目の体裁を整えればいいという方でしょうかね?だから、とにかくおチンチンのついてる子供が必要だったのかしら?
2001年に敬宮様がお生まれになったことで、平成の4人組は、このままでは皇統移動が難しいと頭を寄せ集め考えたと私は思ったのですが。
しかし、折原みと氏によれば、女児の誕生は出産前に宮内庁が把握していたと最後のページに書いています。
ということはご出産前から平成4人組は相談していたことになり、女児を確認してから男児の出産について動き始めたことになります。
敬宮様ご出産後も皇太子妃雅子様への、男児をという圧力は当時の天皇や宮内庁から日常的にあり,マタハラのレベルでしょうがここでは省きます。
2003年の出来事だけを簡単に。
5月、敬宮様と雅子妃の公園デビューが報道人にリークされ、お忍びが潰される。
6月湯浅宮内庁長官が皇太子ご夫妻に、もう一人ほしいと定例会見で発言。10月、メキシコのフォックス大統領歓迎晩餐会で明仁天皇が雅子妃の紹介を飛ばす
12月、湯浅宮内庁長官が、秋篠宮様に3人目を希望する発言を会見で行う。 雅子妃、帯状疱疹でご入院。
2004年
5月、皇太子殿下の、雅子妃に対する人格否定があった、と発言。
7月、雅子妃の、適応障害が宮内庁から発表、
今では誰がリークしたか、だれが長官に言わせたかはわかります。
それ以外の嫌がらせ、いじめ行為をブルーサファイアさんが記事にしてあげています。この記事以外にもここ数日上げてますので、お知らせしておきます。
ブルーサファイア様,記事の引用失礼します。
皇太子ご夫妻、特に雅子妃にプレッシャーをかけマタハラを行いながら
一方では、男児出産に向けて具体的な準備が始まっていたのだと思います。
療養期間に入った雅子様への精神的な追い詰め方は尋常ではなく、宮内庁が離婚か死かを迫るほどのものだったと聞きます。また、男児が生まれても皇太子さまには廃太子論の本が出されるなどしましたが、
皇太子ご夫妻を支えたのは、敬宮様の成長だったわけです。
男児出産に向けて協力をしたのが、紀子さんが総裁をされる愛育病院でした。
日本では不妊治療として体外受精児は誕生したのは1983年
不妊治療.、そして遺伝子異常児を減らしたいということから、受精卵の着床前診断へと進化したのが1990年代、それが男女産み分けが可能になっていった経緯です。
しかし、日本では男女産み分けのための着床前診断は認められてはいません。遺伝的疾患がある場合に申請して、着床前診断を行うとなってます。
法的な拘束力はなく、倫理観の問題や産婦人科学会などによる「命の選別」にあたるから禁止するという規制だけです。
確実に男児を得るには、母から健康な卵子の採取と父親から精子を採取し受精卵をいくつか作る作業が必要でしょう。
秋篠宮ご夫婦の場合高齢出産の年代でありましたから、健康な卵子を得るにも時間が要したのではないでしょうか。
その受精卵に対し着床前に確実にY染色体があり男児であることを確認しなくてはなりません。
その確実な受精卵を得るまでには、一定の日数がかかるでしょう。
年単位だったと思います。
さらに、受精卵を母体に戻し着床をさせなくてはなりません。
この頃の湯浅長官発言ではないかと私は思いますよ。
それでもすんなり妊娠には至っておらず、丸2年は要しています。
それが無事、着床して妊娠となった時期が、2006年2月
当時の安倍元副官房長官の受胎告知だったのです。
今日はここまで
明日も悠仁さんの話を続けましょう。
今日も読んでいただきありがとうございます。❤️