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雨あがりの夕方の空はきれい

 今日はもう大丈夫な気がした。もう思い出に頼らなくても生きていける。そう思えた、気持ちの良い、雨あがりの夕方だった。
 もう一年以上追憶に囚われて生きている。それは仕方のないことで、あまりにも甘美で綺麗だったから。まあその辺りのことはずっと書き続けてきたから、もういいだろう。

 垢抜けたい、洗練された自分になりたい。そう思ったとき、真っ先に思い浮かぶのはやはり彼ことだ。センスやこだわりがはっきりとしていて、美学がある。彼の持つ赤いチェックのブランドに憧れて、一年以上も買うのをためらってきた。期末レポートが終わったら、ご褒美にそこで帽子とカーディガンを買おうと思っていた。
 でもやめた。また欲しくなるかもしれないけれど、とにかく今はやめた。それよりもiPadが欲しい。あとはパリにも行きたい。後期の一部対面授業が決まったから、それまでに通学リュックは買うけれど、もう少し他のブランドも検討しようと思った。

 去年はともかく、今年に入ってから、私の好意はある意味で安定した、真っ当なものになってきた。もちろん、彼の人間性は酷評される部分もある。それでも私は徐々彼を認められるようになっていた。意見の相違や考え方の違いに納得はできない。でもこういう考えを持った人がいるということを、自分と違う他人が当たり前に存在し近くにいることを当然のことなのだと思えるようになってきた。
 彼の中に自分を見出し、また自分の中に彼を見出してきた。自分を認めることを通して彼を認められるようになり、彼を認めることを通して自分を認められるようになった。まだ完全に、ではないけれど。
 彼といて成長したとか言いたいわけではない。というか、彼といて成長したとはとても言えない。むしろ堕落したかもしれない。いや、成長とか堕落とか、そんな言葉すら使いたくない。良いことも悪いこともあった。それに伴って、良い状態にも悪い状態にもなった。ただそれだけだ。彼を時には憎みながらも尊敬し、愛していた。

 今日はいつも思い出す去年の夏がやけに遠くに感じられた。桃のフラペチーノが発売されたら、それを飲まなければいけないような気がしていた。それが、彼の好物だから。問答無用で連れて行かれたスターバックスで「去年飲んで美味しかったんよな」と奢ってもらって、延々と愚痴や弱音を吐くのを聞いた時のことを鮮明に思い出せるような気がするから。でも駅前のスタバの入り口で立ち止まって、もう必要ないなと直感した。店の前から立ち去るとなぜかすっきりした。身が、心が、軽くなった。

 きっと私はこれから沢山の記憶を忘れていく。いろんな思い出が遠くなっていく。思い出せなくなっていく。ゆっくりと、でも確かに忘れていく。でも、もう大丈夫。忘れても生きていける。
 雨あがりの夕方の空は綺麗だった。雲の向こうに淡いグラデーションの青空が涼やかで、清々しかった。

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