優しさを矜恃にもつひと
男友達にすごく人格のできた人がいる。長く付き合っている彼女がいて、おしゃれが好きで、ふざけたノリも好きだけど大人数は苦手で、芯は熱くて真面目な人。他者のダメなところもひっくるめてその人が好きだと言える胆力がある人。
少し前にメッセージのやり取りはあったものの会わないと疎遠になるのは致し方ないことだと思っていたので、共通の友人と3人でZOOMできたのは正直とても嬉しかった。
話は大半が彼の惚気話で、聞いているこっちまでキュンキュンしてしまうような、甘くて真摯で愛の深いものだった。真っ暗だった窓の外が徐々に明るくなる頃、共通の友人が途中で寝落ちしてしまったので、最後は二人で話していた。
二人だけの会話になり、話は徐々にちょうど一年前の話へ。お互いに色々なことが重なった時期だった。私はいつものように昔話を意気揚々とし始めた。私が話題に困った時、いつも過去の男たちの話をするのはそれがウケた記憶があるからだ。でも近頃は尽く失敗している。全てを話すとあまりにも冗長だからだろうかと、簡潔に話すように気をつけて話し始めたところで、ストップがかかった。
「ごめん、もうこれ以上は聞きたくない。俺にとってあいつは大事な友達だし、さなちゃんも大事な友達の愚痴とか聞きたくないやろ?」
そう言われて、ハッとした私は「ごめん」と口をつぐんだ。
彼は続ける。「そういう愚痴がずっと出てくるってことは、今が豊かじゃないってことじゃない? もう昔のことなんやからさ。女の子やから愚痴言うのは仕方ないんかなって思うけど、同じような話を何回もしてるのに気付いてる?」
私はずっと同じ話を何度も何度も繰り返していた。それは頭の中でもTwitterでも同じことだった。同じ話を何度もするために新しく出会った別の人に話したり。でも、それって同じところから一歩も進めてないってことなんじゃないだろうか。もちろん、進むことだけが全てではない。だけど「動かないと次はないから」と彼は言う。
「俺が偽善者なだけかもしれんけど、何か悪いことがあっても、悪い人と出会って何か起こってしまっても、自分が良い人やって自分で思えたらそれでいいやん」
いつの間にか大人になるにつれて、人間の汚い部分を見るにつれて、自分だけが良くあることに疲れてしまっていた。自分も汚れてこそ汚れた他者を許せるのだと、良くあることを諦めてきた。汚れた他者を側に置きながら、自分だけ良くあることの難しさをこの年になると突きつけられる。
彼も間違いそうになったことがあって、何より大切な彼女を失いかけた。彼はそこで変わったという。裏切りたくない、失いたくない誰かがいることは、人を強くする。
何もなければ何もないだけ、どこへでも行けるし自由だ。良い子は天国へ行けるが、悪い子はどこへでも行ける。それはとてつもない自由だけど、私たちはどこか満たされない思いも抱えている。
話の中で、去年の秋以降にとても救われた旨についてもちゃんとお礼を言えた。周りが信じられず心のシャッターを下ろしてしまっていた時期、普段通りに話しかけてくれたこと、無理のないように自然と笑わせようとしてくれたこと、クリスマス頃から受験が終わるまで取り止めもないLINEに付き合ってくれたこと。その全てが彼の優しさからの行動だ。
メッセージでのやりとりが苦手で、すぐやりとりを終わらせてしまうというのは今日初めて知ったことだった。苦手でも、寂しさを紛らわせるためのLINEに長く付き合ってくれたのだ。
彼の人生観や価値観、恋愛観は私にはないものばかりだった。彼女と長く続くのも、それが微塵も揺らがないのも、納得がいった。
私はこの数ヶ月、自分が子どもに帰ることで自分と他者を認めてきた。彼は大人になることで他者を受け入れてきた。
「もう20歳なんだから、いつまでもわがまま言ってられないよ」という彼の言葉は、優しくそれでいて強く胸を刺す。
大人になるというのは、自分を押し込めることでもある。余裕がないときを彼も経験してきたと言う。それを乗り越えて自分の人生の主人公は自分だと、自信を得たときに少し大人になったのだと。
「あいつ」を「ダメなところもあるけど、そこもひっくるめてあいつやろ。そこも含めて、俺はあいつが好きやし、大事な友達やと思ってる」と言った。そんな愛情深い彼を尊敬する。
この人との関係を適切に保って、その範囲内で友人として、人生を見守られたいと思った。いつか、彼に良い報告ができるように。