Surround me Music, Feel Good#8

前回の投稿からしばらく(かなり)間が空きましたが、久々に。

For Long Tomorrow/toe

toeの2作目のフルアルバム。基本的にはインストバンドであるものの、『after image』にはクラムボンの原田郁子、『Say It Ain't So』ではdry river stringのyuzuru hoshikawa、『グッドバイ』では土岐麻子がヴォーカルとしてフィーチャリングされていて、歌の要素が加わってきた作品。また、鍵盤の旋律やコード感がより備わっており、エレアコのナイロン弦の音色を際立たせた曲など、その変化はこのアルバム以降のライヴ演奏でも継承されている。

ツインギターあるいは鍵盤の主旋律が絡まり合う様はトランシーで時に官能的。ドラムスはテクニカルで雄々しくも、「刻む」というより、「歌う」ドラムス。インストに興味が薄い人の入り口としてもおすすめ。


別室で繭を割った、プロトタイプ11、他/諭吉佳作/men


当初は「iphoeですべてを作曲するミュージシャン」という紹介がなされていたシンガーソングライター。

既存の楽器の生音を録音することなく、イメージに合う音を選んで作曲し歌を乗せる、その根元的な創作手法と、現在、大衆的に用いることができる技術/ツールの違和感のない調和(まぁ、そんな言い方しなくてもデモをシンセで作るの当たり前の時代ですが……。)。

また、崎山蒼志との共作や楽曲提供といった話題性もありますが、筆者は個人名義の作品が特に好きです。

諭吉佳作/menさんが世間に認知されはじめた時点で10代ということもあり、いわゆる「天才」としての紹介が多いように思いますが、なにはともあれ、聴いてみるのが一番。


BED ROOM/CICADA

そのアルバムタイトルが示す通り、ベッドルームミュージック的な親密さに満ちたトラックが並んでおり、温もりと郷愁感、淡い光に満ちた作品。

(たとえば、)「ミニマルでリリカルな和製R&B」というと安っぽいけど、そのような語り方がなされるものの中でも、成功例ではないかと。またバンドの最初期の段階で作られたというのも驚き。そして、だからこそ「雑味」のようなものが皆無に近い無垢な作品となったのだろうか。

CICADAは、2016年にユニバーサルミュージックからメジャーデビューをしたものの、残念ながら2019年に解散してしまっていますが、メンバーの一部は新しいバンドの結成やソロ名義での活動を継続中です。


Make Yourself/Incubus

00年代にオルタナティブ、ミクスチャー等と言う言葉が流行り、incubusもその文脈で語られた頃のいわゆるヒット作。

音楽以外にも才能があるメンバーたち、その中でもイケメンなヴォーカル(フロントマン)の存在、ファッション性と、もちろん音楽的なお洒落さ/斬新さもあって特に00年代初期には強い存在感のバンドでした。爆発的な人気を得た後、王道ロック路線のフォーマットへ作風を収束させていった【Linkin Park】もそうでしたが、ラップヴォーカルや、サンプリング音の積極的な導入といった観点から、実際はヒップホップやクラブミュージックの世界では当たり前に以前から使われていた手法を積極的にコラージュした先見性があったと言えますね。

この次のアルバム「Morning View」では、パワー抑え気味で、精悍な作風に変えてきますが、そのような路線変更・新しいモードへの変更をためらわない点も秀でた部分でした。


ルイ・クープラン&フローベルガー:ハープシコード作品集/桒形亜樹子

ピアノ以前から存在している鍵盤楽器のハープシコード(チェンバロ)は、バロック時代において、その楽器のための作品が数多く残されています。

ルイ・クープランは、フランソワ・クープラン(大クープラン)の甥にあたるフランスの作曲家であり、フローベルガーは、ドイツ出身の作曲家であり、どちらも17世紀に活躍しています。

ピアノ以前の楽器ということで、音量や音色の幅、そして作品の内容が、現代の音楽をたくさん聴いている人間からすると似たようなものに感じられてしまうというのは、ハープシコードに限らず、筆者はそう思うことが実際によくあります。

しかし一見、渋いものの中に、(それを汲み取ることができれば)むしろ現代では失われてしまった豊かさがあり、クラシック音楽の分野などは、そういった観点からも良いなと思う。たとえば、ハープシコードは現代のピアノなどではあてがわれていない音程がある(音律の違い)など。

演奏者である桒形さんによる、フローベルガーが生きた時代の楽器と空間に出会い、録音を行うまでの「フローベルガーと私」もぜひ読まれてみて下さい。



AROUND THE WORLD/高嶋ちさ子

テレビ出演(音楽番組だけでなくバラエティ番組も含む)の機会が多いため、ヴァイオリニスト/音楽家というより、そのキャラクター/言動の方が印象に残っている人も多いかもしれません。また、高嶋ちさ子さんのコンサートは、「12人のヴァイオリニスト」「めざましくラシックス(通称「めざクラ」)」といった大衆向けなコンセプトに寄ったものがほとんどで、トークの時間も多いことから、いわゆる「伝統的なクラシック音楽」の世界観では評価しない人も多いであろうという印象です。

しかし、音源だけでなく、実際に2度ほどコンサートにも行ったことがある筆者としては、先入観なしでまずはその音楽を聴いてみて欲しいという思いです。

1回のコンサートの中で、ある作曲家やある時代の音楽を体系的に取り上げたり、ヴァイオリンソロ作品、ヴァイオリンソナタ作品をピアノ伴奏のみで弾くようなタイプではありませんが、その音楽としての自然さや、クラシック音楽の間口を広げる役割、また今の時代のクラシック音楽の在り方、オリジナルでない編曲作品や楽器編成の採用、ヴァイオリニスト(音楽家)という職業を成立させるための方法の模索といった部分も含めて、もっと、その実績や作品の内容をまじめに語られてもいいのではと思っています。

さて、このアルバムは室内楽アンサンブル、プラハカメラータを迎えてレコーディングされています。しかし、どの曲にもオリジナルの楽譜とは違う編曲がなされており、オリジナル以上に華やかに「盛った」装いで録音されているとも言えます。

高嶋さんも好きだというカッチーニの『アヴェ・マリア』は、ヴァイオリンソロパートの部分はもちろん、プラハカメラータが担っているパートもとても美しいです。



Haydn: Guitar Quartet-Paganini: Guitar Trio/John Williams, Alan Loveday, Cecil Aronowitz, Amaryllis Flemming

ジョン・ウィリアムズはクラシックギター奏者の巨匠の一人で、クールながら正確で安定したテクニックと、緻密で繊細な情感をたたえた演奏に定評があるという認識。したがって、テンポを大きく揺らしたり、ダイナミックにf(フォルテ)やp(ピアノ)の差異を聞かせたり、激情的な演奏をするタイプではないというのがジョンの演奏について語られる場合の傾向かと思います。

(レコーディングや今でも視聴できる動画を見る限り、)筆者としてもそのような一般論に全く異論はないのですが、ソロではなく、アンサンブルにおいては、その完璧にコントロールが効いた演奏に加えて、ワクワクするような鮮度を感じます。

違うタイプの演奏家であるジュリアン・ブリームとのデュオでもそうでしたが、このアルバムのカルテットとトリオでは、ジョンにしてはクールというより、溌剌としていたり、嬉々としているような感情の揺れ幅がダイレクトに伝わってくる印象を受けました。

おそらくジョンという演奏家は、ソロにおいても、もっと自由で情緒的な演奏のアイデアも十分にある。けれど、それを実現しようとした時に、一人で複数の声部を扱うギターという楽器では、どこかで彼の美学なりトータルバランスなりを保てないから実行していない/アンダーコントロールの演奏に努めるのだろうなと思ってます。


CANCION DE CUNA Guitar Music From Cuba/Marco Tamayo

キューバのギタリストMarco Tamayoによるキューバのギター音楽作品集。レオ・ブローウェル、ニコ・ロハスのような、現在では、クラシックギター音楽のレパートリーとして地位・人気のある作曲家の作品をはじめ、通常は必ずしもクラシック音楽のジャンルにわけられないポピュラーミュージックとして扱われている作品のギター編曲もの(キューバのスタンダード「南京豆売り」)や、クラシックの伝統的な形式や語彙を曲中に使用した組曲(Gramatgesの「Suite breve」)が扱われています。

そういった前情報や演奏家のプロフィールからの偏見にもよるのかもしれませんが、まさに「キューバ的」な演奏だと感じます。作品がキューバ由来ということ以上に、音色やニュアンスがなぜか行ったこともないキューバを想わせてきます。

陽気な街並み、港や海や太陽、そして時には「キューバ危機」のような歴史的翳りも含めて、その背景が見えてくるかのようです。

(キューバのポピュラーミュージック「南京豆売り」は、かつて日本の「ザ・ピーナッツ」もカヴァーしていたらしく、音源を見つけた。)

(Hector Angulo/Cantos Yoruba de Cubaは、キューバの巨匠的なギタリスト・作曲家であるL.Browerによる演奏も存在するようだ。)



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