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2019年3月16日27時

消しそうな日記です

このところの精神の不安定はまるっきり満腹中枢へ影響をおよぼし、少食と謳いつつ一日に軽食を二度ほどはとって暮らしていたものが、ほとんど咀嚼を想像したくないように戻ってしまって、この部屋に体重計はないけれど40kgを破る日も遠くない気がする。なにを眺めても食べたいと思わない。うすい吐き気のようなもの、お腹がいっぱいのときみたいに。でも空腹で、しかし食べたいとは思わない。ひとりでは、とくに、むつかしい。人と一緒なら、人と一緒にいるついでに、暇つぶしに、咀嚼ができる。ひとりだと暇ではないので、食べることを目的にせねばならないというのも、よくない。

1日分のビタミンのジュース。1日分の鉄分ののむヨーグルト。ザバスのプロテインドリンク。これでなんとなく肉体維持への必要最低限は投資しているつもりで、あとは脳を動かすためにカフェラテを浴びる。鶏肉か豚肉を、日に一度は無理やりのみこんでみる。たいていは二口程度であきらめて捨ててしまう。シュガージャンキーだと指摘されて気づいてから、チョコレートを主食から外したら、代替となる固形物に見当がつかなくなってしまって、一年くらい経つ。

不安定は喉に住む。

曖近、おそらく二〜三週間ほどかけて緩やかに下降を一途していた精神衛生環境が、一昨晩いったんの底を打った。不安定を吐露して「春が来るんだね」と言ってくれる人のいるという事実が、その底をぎりぎりにささえている。

春が来る。

いくつもの春は別れの・あるいは崩壊の記憶で、それは、春がどうにも苦手なせいだ。わたしはずっと、まだ、春をうまくやり過ごせない。止まってしまいそうで、めちゃくちゃにしてはその風圧で走って、逃げて、だって止まるというのはこの場合死ぬことを意味するのですが、わたしはちゃんとずっと死にたいけれどもちゃんと死にたくなくて、だから運動エネルギーを調達するのにめちゃくちゃにしなくてはならなかった。

そういう春をいくつもやってきたので、春はそれらのめちゃくちゃが、それらの壊した暮らしが、オーバーラップして、ここ数日をわたしはいったい何次元をすごしているだろう。めちゃくちゃと暮らしがオーバーラップして、そのオーバーラップしたものがまたオーバーラップして、透過35%のレイヤーを幾重にも暮らすので、混乱と、幾重分もの感情の行き場なさとが、喉を塞ぐ。

今日は、泣いた。誰もいない地下室をかたつけて座ったら立てなくなってしまって、そのまま泣いた。泣いてから、「最近ずっと泣きそうだったのだ」と思った。
わたしは悔しくてしか泣かないのに、なにがそうまで今、悔しいのか、皆目見当もつかない。

生存戦略としてのいろいろな自傷も、そろそろ控えなくてはならないから、でもじゃあどうやって、延命しようか、この春は。セックスとドラッグとロックンロールで越したいくつかの春を、わたしは、悔しいのだろうか。セックスとドラッグとロックンロールを手放しては、この春の越し方のわからないことを、わたしは悔しいのだろうか。美に溺れるには、ちょっと、未来のことをかんがえてしまっている。

めちゃくちゃの最中に贈られた曲を、胸の内においておくことはばかられるほどに、苦しい。でもそればかりを、聞いてみる。これもひろくは自傷です。

本を借りるのが苦手です。本を買います。