【読了】82年生まれ、キム・ジヨン/チョ・ナムジュ著
この作品のことはもちろんずっと知っていた。
ずっと気になっていたし、手に取るべきだとは分かっていた、でもなかなか勇気が出なかった。
わたしはフェミニストではない。
特別「こうあるべき」という思想があるわけではないし、性別による役割があることは受け入れていた。得意なことは得意な人がすればいいことだし、必要以上に平等を謳うことには違和感すらあった。
例えば、初めて食事をする男性が素敵なお店を予約してくれていたら嬉しいし、女性として扱ってもらえると、なんだか幸せな気持ちになる。
でも、男性ばかりの社会の中で十余年働いてきて、どことなく思うことも、それは、ないことはなかった。
だから、フェミニズム小説なんて、つらくなるだろうなと思った。蓋をしていた気持ち、気がつきたくない気持ち、なんとかやり過ごしてきた気持ちを、無理に起こさなくていいんじゃないかと思った。そういう気持ちこそがフェミニズム問題の根幹にある気持ちなのだろうけど、そんなこと知ったことではないと思った。わたしはわたしで、生きていかなければいけない、働かなければいけない、お金を稼がなければいけない。だから、どうにかこうにか、うまくやらないといけないのだから。
読み終わった直後のわたしがこんなことを考えているということが、全てなのだろうと思う。
小説としてはとても読みやすく、誰にでも手に取れる文体で書かれていた。(文学的な表現は意図的に避けられているのだろうというところまで含めてこの作品のメッセージ性を感じた)
内容には言及しないけれど、思ったことを少し。
わたしは飲み会が苦手で仕方がない。そもそもお酒が好きではないし、騒がしいところも、音も、においも、全て苦手だった。でも、会社員生活をしている以上それは避けられないし、行けば行ったで、それなりに会話をすることも、場の空気に馴染むこともできる。ただ、本当に本当は、嫌で嫌でたまらなかった。絶対に断れないという表向きの仕事の会食での、(それだけが理由だけではないにしても)性的な話も、性的な話を嫌だと言えない空気も。そもそも仕事以外に、好きでもない男の人と近い空間にいなければいけないことも、飲み食いすることも、何もかも苦手だった。楽しくなさそうな顔もできないし、嫌な話に嫌だと言えない自分に対しても絶望した。静かな、適温の、自分だけの部屋に帰ることだけを心に置いて、この十年以上をやり過ごしてきた。
(もちろん、飲み会や宴会が好きな人もいます、わたしは特に静かな生活が好きな性格なので、あくまで個人的な話です)
ああ、家庭のある女性はいいな、といつも思っていた。「夫が」「子供が」と言って会食に参加しない女性がうらやましくてたまらなかった。もちろん彼女たちが家事に育児に自分よりはるかに大変な気持ちを抱えながら働いていると分かっていたから、それは言わなかったし、態度にも出さないけれど、そういうわたしの気持ちこそが、もしかしたら他の女性を苦しめていた可能性もあったのだと思う。
もしかしたら、会食に参加できないことがもどかしい女性もいただろうし、こうしてわたしが我慢したことでこれから後輩の女性社員たちも同じようにすることを強いられる。
だけど、わたしはわたしの今の状況を変えようと思えるほど強くはなくて、我慢することだけが最もローリスクだと思っているし、きっとそれはこれから大きく変わることもないだろう。
たまにする妄想がある。
人に言わないできたけれど、本作を読んでそのことに気がついた。
それは、自分がすごく社会的地位の高い男性に見初められるという妄想。(本当にたまにね、実際はそんなことだけを考えているわけではない)
それが何を意味するかというと、わたしはその男性に見初められて、大切にされて、庇護されるべき存在になることで、全てのその他の男性から解放される。飲み会にも行かなくてよくて、女性だという理由で何かを強いられることも否定されることもなくなる。その男性のためだけに生きられて、守ってもらえる。ああ、なんていいんだろう、と思う。
「男性から解放されたい」ということを「地位の高い別の男性」に委ねるというとんでもない皮肉な妄想。でも、たまに思う。
地位の高い男性になら、わたしの周りにいる男性は、誰も、何も、言い返せないから。
ディズニープリンセスが最後に王子様に見初められてみんなに見守られて今まで苛められていた人たちを見返して、祝福される、あの構図に近いのかな。
それと同時に「助けて」「一緒に闘って」となかなか言えずに、自分の力でなんとか現状を打破しようと闘う、ちょっとめんどくさいけど、でも芯の強さのあるエルサを初めて見たとき、すごく好きになった。王子様が最後に救ってくれるだけが世界の物語ではないのかもしれないな、と思った。
もう一つ。
父方の祖父母はすごく田舎の、特別男性優位の考え方の地域の人たち。
わたしが生まれたとき、女だと知ってガッカリしたと聞いたし、妹が生まれる前「次も女なら腹に返せ」と言われたことを、妊婦の母がどんな気持ちで聞いたのだろうかと思うと、言葉にならない。
「忘れない」と母が教えてくれた。
でも、初孫だったわたしを、祖父母は本当に可愛がってくれた。そりゃあそうだ、あの人たちも、本当は優しい、素朴な人たちなのだから。
わたしはその田舎の島に子供の頃、夏も冬もよく遊びに行った。祖父も祖母も、本当に本当に可愛がってくれた。都会しか知らなかったわたしに、いろいろな経験をさせてくれたし、教えてくれた。
祖父は既に他界してしまったけれど、いとこに男の子が生まれたときの喜びようといったらなかった。本当に本当に、祖父も祖母も喜んでいた。男の子が生まれるのはこういうことなのだなあと、そのときぼんやり思った。
そのいとこの男の子は、ほとんど田舎の島に遊びに行ったこともないし、祖父母との思い出もそんなにないだろうことを知っている。でも、祖母は今でも、彼のことをすごく褒め称える。えらい、すごい、と、賞賛する。
わたしはいとこの中でも最年長で、彼は最年少なので当然なのかもしれないけど、祖母の顔を見に行ったり、お小遣いをあげたり、食べ物や生活のことで困ったことがないかと、彼が一度でも気にかけたことがあるかなあ、と思う。わたしがいつも自然にしている、そのことを。(もちろん、自分が幼少期に可愛がってもらったから、当然のことだと思って自然にしてきていたことだけれど)
あなたがする、ということに特別な意味があるのだから、してやってよ、とすら思うことがある。わたしではダメなんだから、と。
わたしが切なく、心が苦しくなるのは、でも、彼が男の子だから賞賛されている、というそこではない。
本当は、本当の意味では、亡くなった祖父も、年老いた祖母も、わたしのことが一番可愛かっただろうし、一番好きだったくせに、と、わたしはどこか、肌感覚で分かっているのだ。そりゃあ、違うかもしれないけど、でも、あんなに毎夏、毎冬、いろんなことをして、笑って泣いてごはんを食べたわたしのことが、可愛くないわけがないのに、と分かっていることが切ない。
だけど祖母は「唯一の男の子である」彼のことをどの孫よりすごい、えらい、可愛い、と口を開けば言う。そのことが、どうしても切ない。
差別的なことも、女性軽視なことも、随分言われた。だけど、そこには悪意がないことも分かっているし、そういう地域で、そういう年代の人だから仕方がないと自分に言い聞かせてきた。でも、わたしが今までの人生で頑張ってきたことを否定されると悲しくなるし、苦しくなるし、それが自分の祖母だということが何よりやりきれなかった。
「ほんとはわたしのことが一番好きなくせに」「ほんとはわたしとの思い出が一番多いくせに」と思う自分と「もうこれ以上傷つけられたくない」と思う自分と、「だけどやっぱり祖母に愛情をあげたい」「子供のときに愛してもらった気持ちを返したい」と思う気持ちが全部ないまぜになって、いつもいつもどうしていいか、わたしには分からない。
女性だけが苦しいだなんて少しも思わない。
優遇されたいだなんて思わない。
それぞれの立場で、役割で、職業で、コミュニティで、それぞれの思いや気持ちがあって、それは生きている限り、人間という感情を持つ生き物である限り、当然のことだと思う。
フェミニズム問題になんて言及しない女性の方がかわいい、と思う。
自分が男性だったら、表向きは理解あることをどれだけ言っていたとしても、フェミニズムについて言及しないような女性を恋人や妻にしたいだろうと思う。
そういう自分の考え方全てが差別的なのかもしれないけど、そう思う。その証拠にわたしはこの記事の一番最初に「自分はフェミニストではない」と書いている。
そして「この記事を書いているわたし」という人間と「現実社会で働くわたし」がリンクしない世界でしかわたしはこういうことは言えない、と思っている。
この小説の最大の良かったところは、最後の一文だと思った。
「映画は最後に救いがあるのでよかったです」と誰かが言っていたけれど、この最後が救いあるようには描かれていないで欲しい。これは絶望のまま終わることに意味があるのだから。(映画は見ていないので見当外れだったらごめんなさい)
この最後の一文こそが、今の、すべてだと思った。
それが必ずしも悪だとも言い切れないし、でもこれでいいとも言い切れない。こんな大きな問題に、簡単には何かを言及できない、と思う。
誰かや何かを強く糾弾することも、大きな声で意見を言うことも、わたしにはできない。だから、苦しんでいる人を救えていないのならば、自分もそれに加担していることと同じだということを忘れてはいけないと思った。
それで。
難しいことは整理できないし、いろんなことを上手くやれないけれど、なかなか昇華もできないけれど、でも、人にやさしくしたいなと思う。
ただ、少し、疲れたな、と、なんとなく、そう思った。
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