ミスジェンダリングとは何か
トランス差別を考える上でミスジェンダリングを理解することは非常に重要なことです。
ミスジェンダリングとは差別の一種で、性自認(ジェンダーアイデンティティ)と異なる取り扱いをすることを指します。それは当事者の持つジェンダーアイデンティティの否定に繋がるもので、人格否定にあたります。
また、ミスジェンダリングはカテゴリー錯誤でもあります。性別は生まれ持った身体的性別ではなくジェンダー(社会的・文化的定義)によって決定付けられるものです。
だからこそトランス女性を男性と呼称したり、トランス男性を男性と呼称することは、差別であるという点以外においても不適切なものであると私は考えています。
繰り返されたミスジェンダリング
トランス女性の女性トイレや公衆浴場利用の問題について、トランス排除的言説を発信していたフェミニズムを標榜するアカウントの多くは、トランス女性を「男体持ち」「シスヘテ男」「女モドキ」「男様」「抑圧層の男性」「トランス女性を自称する男性」と呼称する等、ミスジェンダリングを繰り返し行っていました。
※以下にミスジェンダリングに対する批判ツイートのリンクを掲載しています。当事者の方は引用先の閲覧にご注意ください。
ミスジェンダリングを前提とした言論
昨年から私はミスジェンダリングに対する批判を行っていますが、こういった風潮は止まず、何かにつけて再燃する傾向にあるように感じています。
何故ミスジェンダリングが止まないのか。
それは、女性専用スペースからトランス女性排除を正当化する論理の前提として、「トランス女性は女性ではない(だから女性スペース利用は不適切)」というミスジェンダリングを下敷きにしているからだと私は考えています。
同じ女性であるにも関わらず、「女性ではない」とし、「男」という枠に無理やり押し込めることは果たしてフェアなことであるのでしょうか?
いいえ、これはアンフェアな事柄です。公正の概念に反するものです。
シス女性が抱く恐怖心やミサンドリー自体は否定されざるものですが、恐怖に基づく偏見の発露や、差別は否定されるべきです。
自身の論理のために他者の性に関する人格を否定することはフェミニズムではなくセクシズムです。
フェミニズムはそういった性に基づく「女は感情的な性格だ」などの偏見に抗ってきたのではないでしょうか?
規範とアイデンティティの狭間に「自分らしさ」を見出だし、生物学的な定義に抗ってきたのではないでしょうか?
何故今まで抗ってきた「生物学定義」や「性に関する偏見」を今度は振りかざす側になっているのでしょうか?
そもそも、「女性専用スペース」の安全について論じる上でミスジェンダリングが必要なのでしょうか?
そういった前提の上に成立したものはトランス女性を排除するものになるであろうと私は考えます。
そうでなくとも、議論の俎上に挙げている属性へ差別(ミスジェンダリング)をしないという「最低限の」尊重はあってしかるべきではないでしょうか。
何も難しいことは言っていません。余計なことを書くな、性別はジェンダーで論じるべきという話なのですから。
そういった最低限の尊重すらなく、トランス女性の生活や、トイレなどの福祉に関する事柄を論じるにあたって、非常に雑な論をこねくり回している様子は「ひとの生活を何だと思っているんだ」に尽きます。
自分の安心のために他者の生活を制限することは誰にも出来ません。それも排泄などの最もプライベートな事柄に土足で踏み入ることがあっていいとも私は思いません。
どうしてもきちんとした議論をしたいと考えるならば、トランス女性側の合意を得て、お互いを尊重した上でプライベートな話をするべきではないでしょうか。トランス女性が同じ社会を生きる人間であることを、私を含めたマジョリティ側は忘れてはならないと思います。
近頃のミスジェンダリングの状況
最近は一目でそうと分かるようなツイートは減ったように感じています。
逆に、トランス女性と明確に示さず、「これだから男は」というような暗に示すような言い回しや「トランスとは何か?」等、トランスの定義が分からないと執拗に繰り返すといった内容が増えました。巧妙化が進んだとも言えるでしょう。
もしも下記のリンクで言われているような文脈のツイートを見つけたら、いいねRTする前に「これはトランス女性差別ではないか」と一度立ち止まってみて下さい。
シスもトランスも、全ての女性が不当な取り扱いを受けないためにも、差別は許されざるものです。どうか、意図せず差別に荷担させられないよう気を付けて下さい。
今まで頂いたサポート、嬉しすぎてまだ使えてません(笑) note記事を書く資料や外食レポに使えたらなと思っていますが、実際どう使うかは思案中です←