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不寛容に抗うということ

というと、多くの人は「何をおおげさな」と思うかもしれませんが、私はこれをなるべく日常のタスクとするよう自分に課してTwitterを運用しています。

日常タスクとして具体的に何をやるかというと、以下のようなことです。

差別的なツイートを通報

差別扇動に対して批判的なリプライや引用ツイートを行う

人権問題、差別問題、表現の自由に関連した署名、ニュース等を拡散すること

自分なりに差別に関する論理を考え、ツイートすること

それによって一人でも自由や差別、人権などの問題について関心を持ったり、考えたり、自ら発信する人が増えてくれたらいいなという目的で日々運用しています。
コミュニケーションツールとしても活用していますが、メイン運用はこんな感じということで(笑)

かつて私が全くの無知であった時、差別について学んでいた先達が多くを教えてくれたように、私はこのnoteを通して不寛容とは何か、どう抗うべきかということを伝えていこうと思います。
遅筆の身ではありますが、どうかお付き合い頂けると嬉しいです。

まず始めに「不寛容とは何か」という事についてですが、「寛容」の語句からあたってみた所、以下の通りでした。

寛容(かんよう、英: toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度のこと。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/14 23:57 UTC 版)

寛容が自分と異なる意見、イデオロギー、性、民族、属性を理解し許容することならば、不寛容は逆にそれらを許さず、自分と同じ意見、イデオロギー、性、民族、属性のみを許容するものと言って差し支えないでしょう。

要するに、不寛容とは多様性の否定なのです。

不寛容は非日常のことでは決してありません。
例えば現状において、あなたは性別や学歴、財産の多寡に関わらず、職業を自由に選択できているでしょうか。大学に行って学びたいという意欲がある場合、それが叶えられるでしょうか。自分の感性が求めるままに、自由なファッションが楽しめているでしょうか。多くの人と異なる振る舞いをしても集団から排除されることなく過ごせるでしょうか。

全員ではないにしろ、多くの人が(自身の経験と照らし合わせて)これに否定的、懐疑的な意見を述べるのではないでしょうか。

このように、画一的な人間や生き方を要求する社会を形成したり、特定の人種、性別、属性であるがゆえに不合理な扱いをされうる、排除されうる社会は不寛容な社会と言えるでしょう。不寛容は意識しないだけで、常に私たちの身近にあるのです。

不寛容な社会を望みますか?
私は明確に「いいえ」と答えます。

不寛容な社会は枠の中に人を押し込めるようなものです。そして、その枠から外れたものは淘汰・矯正されることでしょう。
それはディストピアであり、反人間的であり、自由や多様性を奪うものです。人間らしい、自分らしい生き方を否定するものです。

だからこそ不寛容に対して抗わなければならない。そう私は考えています。

これは普遍的な話なのです。
あなたにとっても、私にとっても。

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Lotus in the mud
今まで頂いたサポート、嬉しすぎてまだ使えてません(笑) note記事を書く資料や外食レポに使えたらなと思っていますが、実際どう使うかは思案中です←