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不寛容に抗うための手段について
前回のnoteで、「不寛容とは多様性の否定である」ということを紹介したので、今回は不寛容に抗うための手段についてお話したいと思います。
まず、不寛容に抗う手段は大まかに分けて2つ存在します。
不寛容に抗う手段
①権利拡張
②反差別
権利拡張というのはその名の通り、権利の拡張を意味します。
(それは差別なのかどうかは別として)マジョリティ、マイノリティ関係なく全ての人は社会から何かしらの抑圧を受けたり、自由を制限されたり、不当な取り扱いをされたことは「ある」と私は考えています。
社会構造上の問題によって不寛容によって不自由を強いられる、十分な権利を与えられていない状態を、構造上の問題を「社会に」訴えることで改善し、権利を100%に近付けることを『権利拡張』と呼称しました。
構造上の問題を訴えるというのは、具体的社会構造上の何が問題なのかを周知させる、キャンペーンを行う、署名活動に参加する等といったことです。マイノリティの格差是正やアファーマティブアクションもこの括りとして考えています。
次に、反差別というのは(「社会」に訴える権利拡張に対して)「人」に対して取る手段のことを指します。
・差別発言をする者を批判すること
・権利拡張を否定し差別構造を肯定する言論、発言者を批判すること
・差別扇動を行う者に不寛容でもって対応すること
・「権利拡張や差別問題に携わる人間を不当に中傷・ハラスメントをし、コミュニティから排斥しようとする」者に不寛容でもって対応すること
差別は社会を構成する私たち一人一人のアイデンティティを否定し、マイノリティの蔑視および、属性のヒエラルキーを低位に固定する効果があります。
人権は普遍的である以上、一つの差別を容認すると、他の差別もまた肯定することに繋がります。そして、巡り巡って自分の属性に対する差別も肯定することになるでしょう。だからこそ、差別は人間社会において容認されざるものなのです。
この認識は誰もが共有できる、連帯ができるものと信じています。人がその権利にふさわしく複雑であるために、党派性を越えて同じ方向を見つめることが出来ると。
私の反差別の定義はそうした連帯の意識とともにあります。
さて、以上を踏まえて読んで欲しいのですが、反差別の手段を採用する場合において、私は必ず守らなければならないと自分に課していることがあります。
・人格(アイデンティティ)の否定は誰であってもしないこと。
・差別の定義付けを狭義かつ厳密に行うこと。
・基本的人権や公正さに悖る文脈(特定の属性の人権・自由を侵害することを許容する)を反差別において用いてはならないこと。
・不寛容でもって対応するのは差別主義者のみであり、その者の属性に絡めてはいけないこと。
寛容のパラドックスにあるように「不寛容には不寛容を」というのが反差別の本質です。目には目を、歯には歯を。排除には排除を。差別と反差別は鏡合わせの関係なのです。
そのため「不寛容でもって対応する」ことは、他者の権利抑制や別の差別に繋がるリスクを孕んでいます。
だからこそ、反差別においては公正さや基本的人権をベースに考え、差別の定義を厳密にしなければならない。そう私は考えています。
権利拡張と反差別。この両者はレイヤーが重なる部分があるので一括りに「反差別」と表現されることも多いのですが(実際私もTwitterでそういう表現をする時があります)、表現の自由やフェミニズムといった「権利拡張」から差別が産み出された経緯を見るにつけ、きちんと分類する必要を感じています。
それぞれの性質を把握し、使い分けを行うことは、言論に限らず、様々なことに言えるのではないでしょうか。
剣は剣として。盾は盾として。
これが不寛容に抗う誰かの論理的思考の一助になることを願っています。
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