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トランス女性は女性のジェンダー規範を強化するのか

結論を言えば「女性として生きている限り、大なり小なり女性のジェンダー規範の強化には加担します」。そしてそれはトランス女性に限らず、シス女性も同様です。
加えて「トランス女性は女性のジェンダー規範を強化する」という論は、実際ジェンダー規範の強化に大きく貢献しているシス女性ないし社会構造を透明化し、トランス女性だけに責を押し付けており、非常にアンフェアなものといえます。

そもそもトランス女性がどうのという以前に、ジェンダー規範がどのようなものか理解されていないかたが多いのではないでしょうか。特にトランス女性排除論を支持している一部の方々は。
それも踏まえて、シス女性の一個人のエピソードからジェンダー規範とは何なのかについて考えていきたいと思います。

女性とジェンダー規範とシスとトランス

まず、私たち女性は(意識しようがしまいが)(大なり小なり)女性らしさを含む自己同一性、つまりアイデンティティを持ち、同時に女性としての社会規範に縛られています
私はシス女性ですが、思春期の頃は女性的な服装が何となく嫌で、他人から下世話な恋愛話の対象にされるのも嫌で嫌で、男の子の服装や母親のお古の(今にして思えばかなりださい)セーターを好んで身に着けていた時期がありました。所謂「ジェンダー規範」を殊更に嫌悪していた時期です。その時何故ジェンダー規範を嫌悪していたかといえば、周囲から「女」と見られることに窮屈さを感じていたからだと、今ははっきり言えます。
バタバタ走るなとか、好きな人が当然いるかのように問われるだとか、体は着替えの時はきちんと隠すものだとか(そうでなければ自分の体に自信があると邪推されるという)。それは私にとって不自由なことであり抑圧でした。
しかし今はそれなりにスカートを履いたり、流行りのファッション雑誌を購入してみたり、恋愛話を楽しんだり、ライブに化粧をして気合を入れて出かけたりしています。これはジェンダー規範がそうだからではなく、私が主体的に選び取ったことです。年を重ねて、女性的な自分との折り合いがついて、そういう自分も含めて愛せるようになったからです。

「なりたい私」に近づく手段として女性的な服装を選び、ジェンダーロールを再生産しているファッション雑誌を購入し、女性らしく恋愛話に興味を持ち、女性の義務的な化粧をすることは、意地の悪い言い方をすればジェンダー規範を強化することに加担しているのでしょう。
しかし、それは主体的に選び取ったものである場合「ジェンダー規範の強化」という文脈で責められるべきことなのでしょうか。もしそうであるならば、今の私も批判されて然るべきでしょう。

何故そうはならないのか。
なぜトランス女性ばかりが自己表現をジェンダー規範の強化だと責められなければならないのか。

ジェンダー規範は社会構造の産物であり、個々人が規範を内面化するのは構造によって抑圧を受けるからです。まず「構造の問題」ありきであって、個々人の、ましてや特定のジェンダーにばかり責を負わせるのは、社会に生きるものの一員として甚だ不誠実なものではないでしょうか
社会構造から無関係な人間は存在しません。私も、これを読んでいる貴方も。ジェンダー規範と主体性の間を揺れ動きながら自分の在りようを選び取っていく。それが現実だと私は考えています。

もし「トランス女性がジェンダー規範の強化を~」という論がトランス女性の抑圧に反対するからこそ出てきた言葉ならば、まず目の前のトランス当事者の声を聞くべきであり、「トランス女性はジェンダー規範に囚われていて可哀そうだね」と賢しらぶって語るものではないと思います。ジェンダー規範的な表現であろうとも、主体的に当事者が選び取ったもの、他人に強要しないのであれば、それは尊重されるべきだと思います。
それこそが主体性を、その在りようを、ひいては人を尊重するということではないでしょうか。

蛇足:ジェンダー規範と同じくらい自身の女性性が嫌いだった思春期と今

思春期の頃は女性的な自分が嫌いでした。それは不自由の象徴でありましたし、何より押し付けられるジェンダー規範をいちいち真面目に受け取って「女として欠陥品」だと落ち込む自分が嫌いでした。そう思うことそれ自体が規範に囚われていることだという自覚は人一倍あったので。
男になりたいと思ったこともあります。

時を経てこの思考は一つの気付きに至りました。女性的な規範に自身を合わせることもそうですが、自身のジェンダーを(規範ごと)徹底的に拒否することもまた、ジェンダーの多様性から自身の揺らぎを「女性ジェンダーではない」として排除することに繋がり、これもまたジェンダー規範の強化になるのではないかということです。

男女の二項対立が目立つジェンダーですが、その二項の中にも複雑さや揺らぎがあり、既存の女性ジェンダー規範の枠に収まらない部分がある人は私以外にもいるのではないでしょうか。
例えば恋愛のステレオタイプに当てはまらない人、一人称が「俺」である人、マニッシュな服装しか着ない人、身体がステレオタイプではない人。これらもまた女性ジェンダーの多様性であると私は考えます。

そして、私はそう考えることによって、ジェンダー規範という男女二項対立的なものをあまり意識しなくなりました。思春期のあの頃より私は周囲の評価を気にしなくなりましたし、今はとても自由です。

貴方は貴方、私は私。私の在りようは多様な性表現の中の一部であり、他者と似ているところも違うところもあります。そして、私が私の表現を愛しく思うからこそ、他者の異なる表現もまた愛しいと感じています。
そんな今の自分が好きです。


最後に。ここで述べられているジェンダー規範とアイデンティティの違いを、私はTwitterで知り合ったトランスジェンダーの方々に教えて頂きました。シスジェンダー向けにデザインされた社会において、シスジェンダーが普段気付かないようなことを呟く皆さんから日々学ばせて頂いています。
思春期のモヤモヤをこうして言語化できたことも、学びの成果の一つです。
感謝と連帯の意をこのnoteに代えさせて頂きます。

#トランス女性は女性です
#トランス男性は男性です
#TransRightsAreHumanRights



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