「つながり」を、"みえる"ようにするために、僕は今日も写真を撮る。 【軽井沢ラーニングフェスティバル 2023】
2023年9月23日(土)ー A.M. 4:00
睡眠時間はいつもの半分くらいだったけど、
アラームが鳴った瞬間、驚くほどのスピードで脳が覚醒する。
眠い目を擦りながら登山ウェアに身を包み、
相棒の一眼レフカメラを手に、どこか浮き足だった様子で軽井沢へと向かう。
その日は、待ちに待った大切な日
僕にとっての、新たな挑戦の日だった。
軽井沢へのお誘い(再)
つい先日、「人生初軽井沢だ」と浮かれていたのに、その後1ヶ月も経たないうちに再び赴くことになろうとは、夢にも思っていなかった。
目的地は、ライジング・フィールド軽井沢
9/21(木)〜9/23(土)の3日間に渡って開催される【軽井沢ラーニングフェスティバル(通称:ラーフェス)】の最終日に、カメラマンのボランティアスタッフとして参加すべく、足を運んでいた。
***
8月下旬、たくさんの縁がつながって、僕は軽井沢にいた。そこで出会ったのがウッチーさんだった。
ある日、ウッチーさんに別件で連絡をすると、ウッチーさんから一言。
(「ウッチーさんからのお誘いなら、いつだって予定こじ空けますよ」と思いつつ)詳細をお伺いすると、9/23だけオフィシャルのカメラマンの方の都合がつかなくなってしまったため、カメラマンのボランティアスタッフとしてラーフェスに参加できないか、というお誘いだった。
「発見」と「思い出」を保存するためのツール
僕は、写真を撮るのが好きだ。
小学生の頃から、出かける際は親のデジカメを片手に、写真を撮っていた。
「写真を撮っていた」と言っても、オート機能でただボタンを押していただけだ。
時を経て、いわゆるスマホを持ち始めてからも、「なんかいいな」と思った瞬間にシャッターを切り続けていた。大学生の頃に、親が十数年前に買った一眼レフを譲り受け(押し入れで眠っていたところを僕が救い出し)、本格的に写真を撮り始めた。
旅先の風景や、日常のふとした瞬間を切り取るところから始まった。
僕にとって、カメラ・写真は、「発見」と「思い出」を保存するためのツールだ。
旅先の非日常的な景色であろうが、日常生活の何気ないシーンであろうが、
「なんかいいな」と思ったその瞬間には、自分ならではの小さな幸せが詰まっている。
誰かと、同じ場所で、同じものを撮っても、同じ写真にはならない。
撮影者が、対象を、もっと言えば世界をどのように見ているのか、どう捉えているのかが、写真には出る。
普段、何気なく生活をしていると見逃してしまう、でも、それに気づいたら、何かいいものを見つけたような、ちょっとあたたかい気持ちになる。
まさに、「ケの日のハレ」を保存し、誰かと分かち合うことができる。
それが僕にとっての写真だ。
同時に、「もっと人を撮りたい」という気持ちがいつからか湧き上がってきていた。
だから、少しずつ人を撮り始めてみた。
僕としては、関わる人たちの表情や、滲み出る"らしさ"を撮りたかったが、どこかうまく撮る自信がなく、最初は友人の後ろ姿を撮るので精一杯だった。自然な表情を引き出せる自信がなかった。
「カメラを向けたら、どこか緊張を与えてしまうんじゃないか」
「いい写真じゃなかったら、相手に申し訳ない」
と思っている自分が、どこかにいた。
そんなタイミングで、ウッチーさんからカメラマンのボランティアとしてのお誘い。
しかも、たくさんの人たちが集う、かけがえのない"場"の撮影。
そんなの行くに決まってる。
奇跡的に23日は空いていたので、即答だった。
【軽井沢ラーニングフェスティバル】とは何か。
何の話をしていたか。
そうだった、軽井沢へ向かっている途中だった。
あと一つ、大切な話があるので、軽井沢に着くまでの間、もう少しだけ耳を傾けてくれたら嬉しい。
冒頭から度々話にあがっている
【軽井沢ラーニングフェスティバル】とは何か。
ラーフェスとは、与え合い、楽しむ、「Give & Fun!」の精神で、感情や直感と向き合う"学び"のフェスティバルだ。
標高1200m、4万坪という軽井沢の広大な自然の中で、3日間に渡って開催される。
そこには、大人・子ども、年齢、性別、所属、立場、国籍、あらゆる垣根を越えて、学ぶこと(ラーニング)に興味関心を持つ人たちが集う。
そして、自身の知見や体験に基づき、「感情や直感と向き合う様々なジャンルの体験型ラーニングセッション」を、誰でもいつでもどこでも開催することができるのだ。(子どもたちと一緒に参加できるラーニングセッションや、子どもたちだけで参加するキッズプログラムもある)
3日間のタイムテーブルがなく、白紙なのだから、そこには見渡す限りの自由と可能性が広がっている。
情報量が多くて、もう何だかよくわからなくない。(笑)
(再掲:職や肩書き関係なく、"学ぶこと"に関心があれば誰だって参加できるボーダレスな場。それがラーフェスだ)
今年は、3日間で72セッション開催され、3日目の一部だけでも以下のようなセッションがあった。
とにかく、多様な人たちが集い、白紙のタイムテーブル、白いパレットの上で自由に交わり、偶発的な出会いや学び、つながりが、大自然の中で同時多発的に巻き起こる、なんともエクストリームな場だ。
今年で6年目、第7回目を迎えるラーフェスは、何ヶ月も前から運営チームの方々が準備を進め、何人ものボランティアスタッフの方々が集まり、当日を迎える。
「そんなかけがえのないイベントのフィナーレを、『ご依頼を頂いての撮影』なんかしたことなかった自分が撮っていいのだろうか。」
という不安も横目に見つつ、それでも、たくさんの縁がつながって舞い降りたこのチャンスに感謝し、この瞬間を全力で駆け抜けて、プロとして仕事をしよう。
そう決めていた。
何より、心の昂りが抑えられないくらい楽しみだった。
***
「(♪)まもなく、軽井沢です。お出口は…」
さっきまで上野にいたのに、
気づいたらもう軽井沢。
大切な前段の話は済んだから、
あとは存分に、今日を楽しもう。
第一の"学び":「うまい写真」を撮ろうとしなくていい
当日、マストで撮影を任せてくださったセッションは7つ。
かわいいネームプレートに名前を書いて、
少し肌寒い朝靄の中、皆さんとラジオ体操をして、
いよいよラーフェス3日目が始まった。
***
さっそく、ある難しさを前につまずく。
セッションの中に溶け込んで、自然な写真を撮っていきたいが、どこか踏み込んで写真が撮れない。
カメラのシャッター音のせいで、注意を逸らしてしまうのではないか。
(このような配慮は大切なので、シャッター音が限りなく小さいカメラへの乗り換えを真剣に検討するきっかけになった)
セッション中、果たしてどこまで入り込んでいっていいのか。
そこにある場も、そこにいる人たちも本当に素敵で、写真にも大きな問題はなかった一方で、
その場の空気、集中、雰囲気を壊してしまうことを、どこかで恐れていた。
場の雰囲気はなんとなく伝わるんだけど、どこか"遠い"気がする。
もっと良くできそうな気がする。
そこで、当日一緒に撮影をしていた映像作家のチャルさんに話を聞いてみた。
確かに、自分の中で「初めての撮影…!任せて頂いたからには、いい写真を撮らないと…」と、だいぶ肩に力が入っていた自分もいたし、
その場の雰囲気に気を遣いすぎて、「うまい写真」どころか、そもそも撮影や場に集中できていない自分もいた…。
撮影を進めながら、まるで自分が「遊牧民・旅人」になったかのような感覚を覚えていた。
フィールド内に点在する、いくつもの”場”を渡り歩き、入れてもらい、その場の邪魔をしないように撮り、また次の場へと旅立つ。
それが、引っ越し・転校を繰り返してきた自身のバックグラウンドと重なり、「新しいコミュニティにどう溶け込むか」「邪魔しないように」といったことにばかりに心を取られていた。
そうではなく、元々自分が「なんかいいな」と思ったその瞬間を切り取ってきたように、写真を撮ればいいんだ。そう撮りたいんだった。
配慮はしつつ、自分の心赴くままに写真を撮ろう。
チャルさんはこうも言っていた。
技術の進歩・普及により、写真は、人々の中で身近な存在になってきた。ボタンを押すだけで、誰にでも撮れてしまう。また、「バズり」や「エモい」などのように、「(今の時代において)世間・大衆にウケる写真」の輪郭が鮮明になってきている気もする。
気軽に撮れる時代になってきたからこそ、たしかな技術が必要。でも、大衆化してきたからこそ、技術だけでは差別化が難しくなってきている。
「『あなた自身が』それをすることの価値はどこにあるのか?」と、暗に問われている。
抽象度の高い、芸術の世界のような話だが、写真に限った話ではない。そんな気がした。
第二の"学び":自分が満たされていないと、いい写真は撮れない
神業の如く、それぞれの場に一瞬馴染みながら撮影をするチャルさんを見ていると、自分の中で大きな衝撃が走った。
チャルさん自身が、その場にいる誰よりも、満ち満ちていて、幸せそうなのだ。
こんなにも、こんなにも幸せそうに撮る人がいるのか。
そんな人を今まで見たことがなかったため、とにかく衝撃だった。
チャルさんは言った。
写真とは、コミュニケーションツールでもあり、
コミュニケーションは、鏡だと思う。
撮影者が緊張していれば、
その緊張は相手にも伝わり、
撮影者が楽しそうならば、
その楽しさは相手にも伝わる。
撮影者が投げたボールを、相手が受け取り、相手が投げ返してくれたものが、ファインダー越しに写る。
チャルさんの言葉を受け取ってから、次第に、自分の中にある「緊張」や「恐怖」ではなく、その場にいることで感じる「ワクワク」や「好奇心」などの明るい感情に意識が移り始める。
そうすると、不思議と「溶け込めるかどうか?」「邪魔しないか?」などという思考はどこかにいってしまった。そう思っていたことも忘れてしまった。それでも、場に対する配慮は忘れずに、心赴くままに写真を撮り始めることができていた。
第三の"学び":人々の表情にこそ、"物語"がある
少しずつ、場に馴染みながら撮影をしていくと、チャルさんがもう一つ教えてくれた。
その一言だけでも、雷に打たれたような衝撃が体の中を走っていたが、たったその一言で、ファインダー越しに、もっと言えば自分の目から見える世界が変わった。
一人一人の表情に目を凝らすと、驚くほどたくさんのものが"みえた"。
あぁ、この人は今、未知の世界との出会いにワクワクしているんだなぁ。
この人は、驚きのあまり、目が大きく開いていて、開いた口が塞がらないんだなぁ。
今、面白くて、楽しくてたまらないんだろうなぁ。
相手の話に、真摯に心と耳を傾け、"聴いて"いるんだなぁ、受け止めているんだなぁ。
同じセッション・場にいて、同じことを聞いても、たくさんの反応・感情がある。同じ感情を持っていても、それをどう表現するかは人によって全く異なる。
それに気づけただけで、”みえる”景色が変わり、シャッターを切るタイミングが変わり、撮る写真が変わった。
どこか"遠く"から「事実を写していた写真」から、
事実を伝えるとともに、「場の温度、人の温もりを感じる写真」へと変わっていった。
同時に、いくつ年を重ねようとも、どこで何をして、どんな人になろうとも、その場にいる方々が、自分の心が感じたことを素直に受け止め、表現されていることへの「感謝とリスペクト」の気持ちが止まらなくなった。
写真には、その人の"観"が出る。
つい最近、友人が
「写真には、その人の"観"が出る。」
と言っていたのを思い出した。
"観"とは、世界の捉え方であり、他者との向き合い方であり、撮影者自身の生き方そのものだったんだ。
今回の経験は、「You(あなたたち)の写真」から、「We(私たち)の写真」を撮り始めるきっかけになったように思う。
撮影者も含めて、その場の「一体感」が感じられるかどうか。
写真を見る人が、その場にいるかのような感覚を味わえるかどうか。
その違いは、物理的な距離感の違いなのか、場への馴染み度の違いなのか、何なのかは自分でもよくわからない。
どちらが良い悪いではなく、そこがどんな場なのか、どんな写真を撮りたいのか、どんな写真を求められているのかで、どちらが相応しいかは変わる気がする。
ただ僕は、「We(私たち)の写真」を撮ることの楽しさや喜びも、知ってしまった。
「つながり」を、もっと"みえる"ようにするために。
ラーニングフェスタでの1日を通して、もっと言えば、わずか7時間ほどの時間を経て感じたのは、「つながり」だった。
ー自分自身の体、心と「つながる」
ー自然・大地と「つながる」
ーこれまで知らなかった分野、新しい世界と「つながる」
ー初めましての人と、ありのままで「つながる」
つながり合う時、そこには、"何か"が現れる。
それは、
自信や誇り、自分の中にある信念かもしれないし、
安らぎや、大自然や生命への感謝かもしれない。
未知なる世界を前にした好奇心かもしれないし、
他者への愛や友情、絆かもしれない。
そもそもこうして、かけがえのない場づくりの一端に携わることができたのも、たくさんの人との出会い・つながりがあったからだ。
「何かがつながり合う時に姿を現す、目には見えないがとても大切なもの」を目の当たりにしてしまったからこそ、
それらを、もっと感じられて、もっと”みえる”ようにするために、
僕は今日も、写真を撮る。
そしてまた、
ライジング・フィールドにも、ラーフェスにも、
必ず、帰ってきます。
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★Special Thanks to:
ライジング・フィールド軽井沢(RFK)の皆さん
軽井沢ラーニングフェスティバル 実行委員会の皆さん
ボランティアスタッフの皆さん
参加者の皆さん
ウッチーさん、チャルさん
Buddyの皆さん
(Buddy=ラーフェスに関わる全ての方々)
かけがえのない場、そして"つながり"を、
ありがとうございました。
※写真は全て、掲載許可を頂いた上で使用しています。
軽井沢ラーニングフェスティバル 2023の全貌が気になる方は、ぜひ以下を覗いて見てください!