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わいの浪人体験記 〜大好きな父〜

はじめまして。これから受験本番がある人、それから受験を終えて浪人を決断した人に、暇があったら是非軽い気持ちで読んでもらえたらなと思い、書きました。よろしくお願いします。

現役生の時前期の私立全落ちして、後期入試まで突入してもうて、卒業式の次の日に入試があったから卒業式も浮ついた気持ちで参加してた。周りでは大学の話題でつきっきりで、旅行の話とかでも盛り上がってたけど、自分は明日入試か、、まだ合格もしていない、、と酷くネガティブになっていた。えぐいぐらい辛かったし、高3で受験勉強始めた時からストレスで円形脱毛症になってたけど、この時期また後頭部に一つハゲが増えた。

結果は無事全落ち。専門学校の大原とECCの専門学校に申し込んだ。もう受験勉強をするのが嫌だったから。しかしそこも席が空いておらず、断られてしまった。たくさん泣いたし、ご飯も食べれなくなった。死にたいとしか思えなかった。 けど、普段あまり話さないお父さんが突然単身赴任先に遊びにくるように誘ってきた。わいの卒業旅行は友達とではなく、お父さんとの石川県に決まった。福井県の恐竜博物館にも行った。全然楽しめなかったし、いつも泣きそうになっていた。専門学校には行けなかったけど、浪人も嫌だとだだをこねていた。だけど、家に帰る車内でお父さんが「浪人せぇ」って言った瞬間、何故かすんなりと浪人を決意した。何故そんなにすんなりと受け入れられたかは正直わからなかったけど、お父さんの「浪人せぇ」にはなんだかすごい安心感を覚えた。

おばあちゃんの支援もあり河合塾に通うことになった。浪人がどれだけしんどいかはYahoo知恵袋やYouTubeのあるあるをみてわかっていたし、成功率が低いこともわかっていた。頑張って合格すると心に誓って、現役時代は関大が第一志望だったけど、浪人は第一志望を同志社にした。春季講習はどれくらい取るのがいいか分からないからとりあえずレベルの高い授業を受けてたらいいかと思い、1〜6限全部授業を入れた。甘く見ていた。時間割を見た瞬間衝撃が走った。あまり覚えてないけど、確か9:30〜20時くらいは授業があったと思う。頑張って授業にしがみついた。現役時代の全落ちの記憶を思い出したり、後頭部にできた二つのハゲを撫でることによって、自分を勉強に追い込んだ。

春季講習を終え、やっと浪人生活が始まったような心地がした。私立文系コースの上から3番目くらいのクラスに入れられた。1番上が早慶コースの上位層で、ひとつ下が早慶、マーチ、関関同立志望者のクラス、わいが所属していたのはそのひとつしたのクラスだ。
第一回の模試が始まった。春休みや春季講習で頑張ったからか何故か成績は半端なくよかった。自分が今までにとったことなかった成績をとった。英語の点数はマーク模試で182点でクラスの上位3位でランキング入りも果たした。判定は同志社英文、グロコミュ共にB判定。あの時僕が落ちた関西外大や近大はA判定だった。なんじゃこれ?って感じだ。

そっから調子にのって勉強にもやる気がどんどん湧いた。言うべきではないかもだけど、僕が卒業した公立高校は偏差値が48とそれなりに低く、指定校のレベルも低かったし、友達の進学先もレベルが低いところばかりだった。わいの高校は関関同立に合格したら高校二年生の前で合格体験談を話すことができる程のレベルだった。その分やはり大体の受験生は産近甲龍や接神追桃に進学し、指定校でもマックスレベルで関大の社会安全であった。
そういうわけで、わいは心の中では学歴厨になってしまって、SNSを見ても友達の大学生活を見てて、今のわいの方が賢いやんとか思ったりして、逆に大学生を馬鹿にする無職と化していた。正直、そんな大学行って勉強せず遊んでばかりでお酒飲みまくってる奴より、浪人で勉強しまくって色々なことを学んでる自分の方が偉いじゃないかとも思っていた。なんて野郎だ笑笑

わいの浪人生活は孤独ではなかった。最初は同じクラスに友達もたくさんできた。二学期になる頃には模試の成績も良かったのでクラスもひとつ上に上がることができて、そこでも多くの友達もできた。ただ、受験勉強は必死に頑張った。友達も受験勉強を頑張っていたので、お互いのモチベーションを高めあっていた。
その後どういうわけか、国公立志望の人たちと友達になる。東大にあと0.1点足りなくて浪人した人、去年京大がダメで浪人した人、その人たちは河合塾の大学受験科で1番最高クラスの人たちで、他にも一橋、阪大、神大を目指す人たちとなぜか仲良くなった。今でも1番仲良いのはその中の一人のYくんでそいつは大学受験科のトップのクラスに所属していた。
わいは大体Y君と一緒にいた。もちろん勉強するときはそれぞれ1番集中しやすい環境で勉強したからお昼ご飯の時間だけは二人で合わせていた。お昼休憩で休憩室が混み合う30分前から先に昼休憩をとり、10分で昼ごはんを食べて、残りの20分は日本史の一問一答の問題を出し合って競った。そして、みんながお昼ご飯を食べる時間に勉強を始めた。僕たちはあたかも休憩を取らずに勉強をしているかのように周りに見せつけることで、優越感を覚えていたのだ。

そのY君とは共通の趣味があり、それは、ナオキマンショーの動画を見ることだった。その動画を見て毎日モチベーションをあげていた。特にずっと見ていたのは「引き寄せの法則」の動画だ。皆さんにも是非お勧めしたい。僕たちはこの動画をきっかけにずっと自分たちが合格すると、日頃から口に出していたし、合格するのが当たり前だと思えるように毎日勉強した。

https://youtu.be/FNOlUyysVd0

受験当日、私立専願だったわいはY君よりも先に本番を迎えた。Y君にとってはわいの第一志望は滑り止めだったが決してバカにしたりはしなかったし、応援してくれていた。同志社の全学部日程が終え、その日は家に帰らず塾に来て勉強した。もちろんY君も塾にいたので、二人で帰りにその日の日本史の答え合わせもした。

わいは無事に全日程を終えた。合格発表が待ち遠しいのか、怖いのか、よくわからない気持ちだった。合格発表の前日はうまく寝付けず、寝れたと思ったら落ちた夢を見て起きた瞬間安心することの繰り返しであった。とうとう自分が1番行きたかった学部の合格発表が来た。
結果は合格。過去1嬉しかった。今でも思いだして泣ける。親と家で騒ぎまくったあと、Y君には1番最初に伝えた。そしたらとても喜んでくれた。Y君は「ありがとう。わいも頑張るわ」と言ってくれた。
とうとうY君は本番を迎えた。センター試験も思ったより取れなかったこともあり、Y君はひどく落ち込んでいた。
合格発表の当日、わいも緊張していた。するとY君からLINEが来た。「たぶん受かった。」と、携帯の通知画面にはあった。(おいおい、微妙に喜びにくいんだが?)。すると、彼から同時に2枚の画像が送られてきた。彼の受験番号と、合格者の受験番号が記載されてる画面のスクショであった。彼はわいに確認してと言ってきたわけだ。合格者一覧のところに彼の番号はあった。「あるぞ!合格やおめぇわ!」とラインを送ったら、彼は「やんな!!信じられんまじ!」ととても嬉しそうだった。その日をわいは忘れることはないだろう。一緒に頑張ってお互い第一志望に合格できたんだから。

他にも仲良くなっていた国公立のメンバーは殆どが第一志望に合格していた。一橋、神大、阪大、、どれもすごい。。わいらはみんなで喜んだ。みんなで調子に乗ってすぐさま遊びに行った。旅行にも行って今でも仲良くやっている。
わいにとっての浪人の思い出は宝物だ。時間はかかったけど、遠回りではなかった。最高だ。

よく父は赴任先から休みの日は帰ってくるのだが、わいは父の言葉を楽しみにしていた。どんな感じで褒められるのだろう。普段褒めるような人じゃないから楽しみだった。結果はあまりだった。「ほんまに合格したんか?」と。。相変わらずだ。だけど、その晩父はお酒をたくさん飲んでいた。酔うと少しおしゃべりになる父は大変嬉しそうだった。
わいには姉と妹がおり、姉は大阪市大、妹はわいが浪人したから同じ年に大学受験をし、見事阪大に合格した。わいの父はそれをとてもすごい喜んでいた。父は酔いながら「さすが俺の子、みんな賢い」と言った。不器用ながらも褒められている実感が湧いた。

これだったのか。と、父の言葉を聞いて思った。

わいが浪人をすんなりと決断できたのは父の不器用ながらの優しさに対する父と子の間の本能的な理解があったからなんだなと。当時は本能的で、なんとなくでしかわからなかった父の優しさも今はしっかりと理解できる。
思い返すとわいが小学校から高3まで続けてたバスケで、辛い思いをした時に限って父はわいに話をしてくれたが、それは嫌味ではなくて優しさだったんだと。
不器用な父が大好きだ。
浪人しなかったらこんなにも大きな宝物も得ることはなかったし、父の優しさに気づくことができなかっただろう。

そう思うのでわいは、とても寒いだろうが教訓的な感じで考えた文がある。それを紹介しよう。

入りたくないような真っ暗な洞窟の入り口でも、入ってみたら所々にある曲がり道や凹凸を越えれば、どこからか差し込む光があって、その光が当たるものは暗くて見えなかっただけでとても美しいものばかりで、歩を進めながら今自分がいる道がすごい美しいものなのだと感じることができる。そして、出口に出た時には、その洞窟に入ったことがある者でしか理解し合うことができない宝物を持ってかえってくるのだ。

冷ぇぇぇぇ

浪人はしんどいけど、頑張ればなんとかなるから頑張れ

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