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一日でも長く好きでいられるように

最近、蓮巳さんを「推す」ことについて、ずっと悩んでいた。先日のゆうたくんの髪型変更により、その懸念が形をとって現れたように思えた。

これを見て、具体的にわたしが何を懸念したのか。いろいろ考えたのだが、とりあえずここには書かないでおく。(しかしあの『スカーレットハロウィン』を経験した同担さんとはなんとなく通じ合えそうな気もする)(些細なことである)

蓮巳さんも変わっていくのかなあ。

わたしにとってアイドルとは、長らく「2次元」の存在だった。それが今、生きている人間、すなわち「3次元」のアイドルを応援するようになって、毎日衝撃を受けている。こと蓮巳さんを見るにあたっては、世界が塗り変わるようなショックを日々感じている。

先日、こんな記事が話題になった。

筆者はこの記事の後半で、変わりゆく推しを前に、ファンが「アンチ化」する仕組みを次のように分析する。

「推す」行為は「推し」を通した刹那的、情動的な主体性獲得の運動であり、まさに推しを「使用」する運動なのですが、このことに自覚的でない人もいます。推しを推すときに、人は推しの輝かしさだけでなく、推しのずるさや不完全さを自らの主体に一致させることを通して、不甲斐ない自分を愛でています。

しかし、そのことに無自覚になり、推しが使用できなくなったと感じた瞬間に、推しに対して攻撃的になることもあります。推しがまるで自分の主体化を妨げる存在のように感じられて憎み始めてしまうのです。

BTSはいかにしてARMYに愛され、ARMYに何を与えたか。「推し活」で自分を愛し、世界とつながる より

ちょっとヒヤッとする文章だ。「わたしのことか...…?」と不安になる。

推しを愛しているといくら口で言ったって、違うんじゃないか。わたしが本当に愛しているのは、推しではなく、それほどまでに熱狂的に推しを推している自分自身なのではなかろうか?

たぶん、これは杞憂ではなくて、半分くらいは真実なのだ。キャラクター論を研究している岩下朋世さんは、著書のなかで「『推し』にキャラクターとしての活力を吹き込むのは、受け手の側なのである」と書いた。わたしたちはファンアートや、日々のツイートやnoteで「語る」ことを繰り返しながら、推しへの愛着を深めていく。(岩下朋世(2020), 『キャラがリアルになるとき』より)

けれど、自分の言葉で、自分の絵柄で、推しへの「好き」を表現すればするほど、わたしの中の推しと本当の推しが乖離していく。そんな感覚に駆られるのはわたしだけだろうか?

というわけで、蓮巳さんの専用衣装が来たのも、そんな不安の真っただ中にいたときだった。

『デッドマンズライブ』を覚えているだろうか。アイドルを志した理由について、かつて彼はこのように語った。

あぁ、楽しいな。おおきなものと絡みあって、己を骨の髄まで溶かして一体化するのは 自分の輪郭が消えて、何か輝かしいもののいちぶになる 独りでは生み出せない熱量で、自分だけでは辿りつけない物語のなかへ旅立てる 〔......〕嬉しくて、幸せで、堪らない。あぁ、だから俺はアイドルになりたかったんだ

-『追憶*それぞれのクロスロード』「Crowd/第五話」より

彼は、天才・朔間零との交流を通して、自分自身に強い無価値感を覚えていた。自分が魅力的な物語の登場人物となることを願いながら、同時に「主役じゃなくてもいい、そんな器でもない」と、まるで初めから自分のことを諦めてしまっているような素振りさえ見せる。

このような衝動、熱狂の渦の中で初めて自己を保てるのではないか...…という考えについて、哲学者の國分功一郎さんはジュパンチッチの言葉を引用しながら次のように述べる。

自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命を捧げることすら惜しまない者たちがうらやましい

國分功一郎(2022), 『暇と退屈の倫理学・新潮社版』, p35

どうだろう。蓮巳さんがアイドルを目指した動機、ひいては先ほどの「推し活」の話にまで、重なるところがあるように思えないだろうか?

今回のストーリーで、蓮巳さんは第一・二話を通してほぼ全ての会話をプロデューサーの前で行った。非常に珍しいことだ。しかもその半分以上が蓮巳さんとプロデューサーのふたりきりという異様な状況である。

自他ともに認める「話の長さ」を誇る蓮巳さんだが、今回その「長話」を聞きながら、こんなふうに推しと自分”だけ”のことを考えたのはいつぶりだっただろうと思い当たった。

この世界、とりわけTwitterは時間の流れが早い。イベントが終わったと思ったら次のスカウトが来るし、スカウトが終わったら次のイベントが来る。わたしたちが離れないように、たくさんの供給で興味が尽きないようにしてくれているのだろうとはわかっていても、あまりにも目まぐるしいなあと思うときもある。

わたしがアイドルを「推す」行為は、もちろん消費行動に他ならないのだけど、かといってこんなふうに、短期的に使い切る勢いで”消費”したいわけじゃないのだ。

K-POPについて研究しているホン・ソクキョンさんは、ファンは自分と推しを「同一視」していると書いた。もしも推しが自分に似ている人ではなく、「憧れ」の存在だったならば、推しは自身の欲求を満たすのではなく、欲望を増大させてしまうのだ、と。(ホン・ソクキョン著, 桑畑優香訳(2021)『BTS オン・ザ・ロード』p162 より)

思い返せば、わたしたちはこの「欲望」にずいぶん悩まされてきた気がする。例えば、ライブに行きたいのにチケットが手に入らない。推しのSSRが出ない。もっとたくさんのグッズやCDを集めたい。もっといいねが欲しい。理解されたいのに理解してもらえない。

そして、ホン・ソクキョンさんはこのように続ける。常に欲望にさらされ続けるのは苦しいことだ、と。そうなると長く「推す」ことが難しいのだと。だから「同一視」する相手をファンは「推す」のだと彼は言った。その行為はいずれ、冒頭で引用した記事のような「情動的な主体性獲得の運動」に繋がっていくだろう。

モノも情報も溢れかえっている現代社会で、わたしたちは充分満たされているはずなのに、どうしてこんなに欲望に振り回されなくてはならないんだろう。わたしはどれだけ愚かなのだろうか。

わたしは蓮巳さんのことを、自由に「使用」できる、フィクションの存在にすぎないと軽んじていたのだろうか?

きっと、それは正しい。それに対してもっともらしい理由を考えることさえ、彼に対して誠実さを欠いてしまう気がするほどに。

そう思うと、泥の中でも汚れなく咲きたいという蓮巳さんの願いは、決して烏滸がましくなんかない。泥沼のような芸能界で、わたしたちの欲望の渦に巻かれて生きていく彼の魂が、汚されるようなことがあってはならない。否、彼がきっと汚れない人だからこそ、わたしは少しでも彼に砂をかけないように心がけたいと思うのだ。

...…家族だけでなく、鬼龍と神崎にしたってそうだ。アイドルとして、より邁進していこうと思う瞬間はいくつもあるが 二人が俺についてきてくれるから、俺とともに歩んでくれるから、俺は『紅月』の首魁として揺るがずいられる 舞台の上で二人の顔を見るとき、こうして実家に帰り、家族の顔を見るとき...… 俺はひとりの力で舞台に立てているわけではないと、応援や支えに報いるため、より高みを目指さなくてはいけないと、そう感じるんだ

-『蓮巳敬人アイドルストーリー』「蓮と誓願/第二話」より

「専用衣装」の打ち合わせ後、ゆっくりと噛み締めるように、彼はそう話してくれた。

「自分だけでは辿りつけない物語のなかへ」旅立つために、アイドルとなった蓮巳さん。彼は昔、人生の苦から抜け出すことを生涯目標に掲げる仏教の道に生まれながら、人々の苦しみを糧に金儲けをする自分の職業を「因果な商売」と呼んだ。それが今では「応援や支えに報いるため、より高みを目指さなくてはならない」と、決然と語ってくれるまでになった。

与えることで満たされる、支えてくれる誰かに報いることが、ひいては自分のためにもなる。そんなことを自覚するまでになったのだ。変わらない美点はそのままに、彼は柔軟に伸びやかに日々成長を続けている。

その姿はまさに「泥中の蓮」だ。

だからこそ、彼から目を離してはならないのだと思う。迷ったときこそ、ちゃんと見ていなければ。わたしが目を逸らしさえしなければ、いつも夜空から見下ろしてくれている、それが彼らの冠する「月」だったのだから。

いつかその日は来るだろう。大きくなっていく彼を見て、「ここで手を離したい」と思う日が。それは明日かもしれないし、1年後かもしれない。もしかしたらわたしが手を離すより早く、彼がステージを降りるかもしれない。

でも、願わくばそれが「欲望にすり潰されて」ではなく、最後まで彼を好きでいつづけた末に、自分で選んだことであればいいなと思う。だって既に返しきれないほどの思い出をもらってしまった。彼がくれた光も、学びも、全部抱えて持って行きたい。

「わたしは本当に蓮巳さんのことが好きなのかなあ」と考え続けた冬だった。どうやらわたしはまだまだ彼のことが好きだ。しっかりと大好きだ。ありがとう、心から尊敬しています。

あなたはいつも大切なことを教えてくれるね。

『ホワイトデーは仕事先で』「蓮巳敬人/花をもらった」より

赤い椿に見合う人間を目指して。

行けるところまでは一緒に歩かせてもらおう。