海の図書館【物語】 加筆・修正版
『海の図書館 はじめました』
それは、毎年7月になると現れる。
まるで冷やし中華でもはじめるかのようなテンションで。
◇
ぼくの住む海辺の街は、控えめに言ってど田舎。
民宿や海の家が建ち並ぶ隣の市は海水浴客が来るのでそこそこ栄えているけど、市境を越えたとたん、こちらは手つかずの自然が広がっている。
唯一畑の真ん中にあったコンビニは、昨年の冬、鮮やかに撤退した。コンビニのおでん美味かったなぁ。
娯楽はついえたかのように思われたが、また夏が来た。
◇
いまは廃墟と化した白亜の別荘が岬にあり、その前は岩壁と岩壁に挟まれたプライベートビーチになっている。
ぼくは小学生の頃から勝手にそのビーチで遊んでおり、その別荘の住人からも大目に見てもらっていた。
しかし、小5の夏、まさにその場所で海難事故が起き、人が溺れて亡くなった。どの時刻も潮の流れは穏やかだったのに、たまたまあの日は台風が近づいており、ぼくも家でおとなしく過ごしていた。
しばらく立入禁止のテープが張られていたが、翌年、懲りずにぼくはあのビーチを訪れた。そこの住人はよほどショックだったのか、あの事故以来、別荘に訪れることはなかった。
誰も入ってこないプライベートビーチは、事実上、ぼくだけのものになるはずだった。
しかし浜辺に下りると、あの『海の図書館 はじめました』の貼り紙が立入禁止の立看板の上に重ねて貼ってあった。
え、怪しい…。と思いながらも、ここはぼくのお気に入りの場所なのに、という気持に押され、おそるおそるその向こう側を覗き込んだ。
ビーチには、漂着した流木を器用に組み立て、白い布をあしらっただけの簡易的なテントが張られていた。蓙の上に直接どーんと置かれたささやかな本棚には、真新しい本や雑誌が並んでいる。
え?今日発売の『少年ジャンク』もあるんですけど!
「こんにちは」
心臓が止まるかと思った。人の気配なんてなかったのに、いつのまに背後に?
振り返ると、真夏のビーチには不釣合な青白い肌の女性が立っていた。長めの髪、耳にはヘチマの花を挿し、ノースリーブの白いブラウスに水色のシワシワになったロングスカートを穿いている。
「あのう…図書館って…」
「どうぞ、ご自由に。好きなものを好きなだけ、好きな場所でお読みになってください。私が厳選した珠玉の蔵書たちです」
この異質な空間と不思議なおねえさんをちょっと警戒したけれど、娯楽に飢えていたぼくは一秒悩んだのちぴょぴょーんと少年ジャンクに飛びついた。
そんなぼくを見て、おねえさんは満足そうに頷いた。
◇
あるときは蓙に寝転がり、またあるときは岸の杭につながれた小舟の上で本を読んだ。
たった三段の本棚蔵書だったけれど、来るたび、微妙にラインナップが変えられていて、それらはいつもぼくの知りたくて読みたいことが書かれた本たちだった。
おねえさんの名前はウミネコさん。海と猫が好きだから、自分で名前を付けたんだと言う。本名は教えてくれなかった。
それにしてもこのひとはどうやって生計を立てているのだろう?どれだけぼくが本を読んでもお金を取ろうとしない。
「お金を取る図書館なんて、聞いたことないわ」だって。
そもそも人気のないプライベートビーチで開く図書館に、来る人間はぼくしかおらず。ぼくも友だちを連れてきたりはしなかった。なぜか小学生の頃から、ここへはひとりで来るものだと思っていたのだ。
ぼくが本を読んでいる間、ウミネコさんも本を読んだり、音楽を聴きながら、つかずはなれずの距離感でぼくをそっとしておいてくれた。
ぼくは本を読む姿勢をとりながら、時折ウミネコさんのことを盗み見た。
彼女の耳元のヘチマの花は、どうやら後ろの別荘に放置されたプランターから摘んだものらしい。
ブラウスの胸ポケットには、たまにネコジャラシの穂が挿してある。猫好きだということだけあって、「万一、ビーチに迷い込む猫ちゃんがいたら、これで遊ぶんだ」と言っていた。ぼくが「猫、来てくれるといいね」と言うと、ウミネコさんは小さな八重歯を覗かせて笑った。
◇
空が紫とピンクに支配される夕暮れを迎えると、ぼくはパタンと本を閉じ、それをウミネコさんに返却する。閉館は、真っ暗になる前と決まっていた。
「それじゃ、また明日」
「ええ、また明日」
ウミネコさんの耳横に飾られた黄色い花も、夕暮れに染まってちょっと切なげに映る。
一歩ビーチを出て、砂からアスファルトにビーサンの底の感触が変わると、ぼくはいつも後ろを振り返る。
日の入り、本日の役目を終えてキラキラと体を海に沈める太陽。その海上の光の道すじで、曲線美を極めた尾ひれが翻る。あの人は今日も海に帰ってゆく。
そんな夏が、5回繰り返された。
そして今年もまた、『海の図書館 はじめました』の貼り紙が、プライベートビーチに貼り出された。
ぼくは高校二年生。17才の、大人とも子どもともつかない中身と見た目になった。
◇
「こんにちは」
ウミネコさんは年を取らない。ずっと少女のままだ。ぼくはやっと彼女と同じくらいの年齢に成長した。
「ウミネコさん、また来たよ」
「ずいぶん背が伸びたのね」
「ウミネコさんは小さくなったね」
「そうかしら?」
照りつける太陽とは対照的な青白い彼女の頬に、小さなえくぼが浮かぶ。
白いテントに腰を屈めて入り、三段だけの本棚を覗くと……。あれ?
「ジャンクも本もないよ」
そこには、古ぼけた大学ノートが数冊、支えをなくして倒れていた。
「だって、あなたの興味がそこにしか向かっていないのだもの」
悲しげな微笑がとてもよく似合う。なぜそんな顔をするの?
今日は帰って出直したほうがいいのかなと一瞬思ったけれど、目に映るノートの引力に抗えず、本棚に手を伸ばした。
ノートの表紙には年月日が記されている。一番旧いものは、10年前の夏まで遡った。短い文章が日付ごとに分けられているところをみると、どうもこれは誰かの日記らしかった。
◇
ノートの上から目だけ覗かせて、ぼくはウミネコさんの姿を探した。彼女はテントの外でデッキチェアに寝そべって、ヘッドホンで音楽を聴いているようだ。
何となく悪いことをしている気分はぬぐえないが、誘惑には勝てない。ぼくはものすごい勢いで、見知らぬ人の日記を読み進めた。
じっとりとこめかみに汗が流れる。日記に登場する“あの子”とは、ぼくのことなのだろう。じゃあ、この日記は誰の目線で書かれたんだ?
答えはひとつ。海の図書館の後ろに聳える白亜の建物の住人としか考えられない。
そこからしばらくは、飼いはじめた猫の海ちゃんとの生活が綴られていた。一変した日記。同じ人のものとは思えないくらい幸福感の溢れる文章が続いて、ぼくもうれしくなる。
ビーチに横たわるウミネコさんの指が、聴いている音楽のリズムを刻んでいる。
そうだ。あの日ぼくは、海へ行かないよう母から見張りをつけられていたのだ。横浜から叔父が新しいゲーム機とソフトを持ってきてくれて、ふたりでずっとゲームをしていた。ど田舎の小学生には刺激的な一日だった。そして翌日、もっとショッキングなニュースが……。
ちょうど日記は次のノートへと移る。文字は群青色に銀の縁取が見える不思議なインクで書き始められていた。
ノートを掴む手のひらの皺から汗が滲む。どうしても気になって外を見ると、デッキチェアにウミネコさんの姿はなかった。
紫とピンクの空がテントの外に広がっている。そろそろ時間だ。でも、まだ読みたい。最後まで読まなきゃ。
引き裂かれるようなジレンマに襲われていたその時だった。テントの背後から、人の気配と砂を踏む足音が聞こえてきた。
ぼくはノートを手にしたままテントから飛び出し、
「ウミネコさん?!」と呼びかけた。
しかし、そこに立っていたのは、白い猫を抱いたご婦人と、花束を持つ初老の紳士のふたりだった。
時が止まったかのようにぼくらは固まり、長い沈黙が流れた。
◇
「キミはひょっとして…毎年うちの前の海に泳ぎに来ていた少年ではありませんか?」
コクンと慎重に頷くと、第一声を放った紳士の表情が少し和らいだ。彼の言葉から、白亜の別荘の人たちだと瞬時に理解した。
ご婦人は涙を浮かべてお辞儀をした。腕の中の白猫は、ぼくを通り越してじいっと海のほうを見つめている。
「今日は娘の命日なんです。よろしければ、キミも一緒に手を合わせてくれないだろうか?きっと娘も喜ぶはずです」
ぼくは首を傾げた。すると、紳士の言葉を継ぐようにご婦人が話してくれた。
「娘はいつも、あの窓からあなたが泳ぐのを眺めていたそうです。」
建物を振り返ると、たしかに二階にはビーチを見下ろせる出窓があった。
「外へ出るのを極端に嫌がっていた娘が、ひとりで楽しそうに泳ぐあなたを見て、心のバランスを保っていたのだと思います。夕飯時には、まるで自分が泳いでいたかのように、あなたの様子を話していたんですよ」
そう聴いて、ぼくは困惑した。
友達がいないわけではなかったが、ひとりでいるのが楽だったぼく。昔からそうだ。それを見ている存在にも気づかず、呑気にはしゃいでいた自分を思い出し、無性に恥ずかしくなった。
暮れてゆく海に向かい、紳士は花束を捧げた。ぼくは波にもまれ沈んでゆく花を見ながら、ぎこちなく手を合わせた。
アオーン ナオーン アオーン ナオーン…
白い猫が悲しげな声で鳴く。猫は身をよじってご婦人の腕から抜け出すと、タタッと波打ち際に駆けて行った。刹那、「海ちゃん!」と、婦人が慌てて猫をつかまえるためにあとを追った。
そのとき、打ち寄せる波に少し浸かった海ちゃんの足を、やさしい白い指が水の中からそっと押し戻すのを、ぼくは見た。
◇
◇
昨晩から降り続いていた雨が上がり、グレーの雲間から青空が覗いた。いつもなら歩いてビーチへ行くのだが、なんだか胸騒ぎがして、いてもたってもいられなかった。虹を見つけたせいだ。
自転車に跨がり、畑の広がる道に出る。空に突如現れた虹は、まるで大きな魚の尾ひれが翻ったかのように美しい曲線を描いていた。
お願い、まだ消えないで。あの人と一緒に見たいんだ。
釈迦力になってペダルを漕ぐけれど、ぼくにとってはもどかしい速度。向い風でシャツが膨らみ、船の帆のようになる。
急がなきゃ。早く、もっと早く。
ビーチの入口に着くと急ブレーキをかけ、そのまま自転車を放って駆け出した。
海からの風が、剥がれかけた貼り紙の端を踊らせている。
ぼくの心臓は、不安でどうにかなりそうなくらい苦しくなる。砂浜へ視線を移すと……よかった、テントはまだあった。けれど、虹はいまにも消えそう。
彼女はいるよね?きっと、ヘチマの花をクルクル指でもてあそびながら、ぼくが来るのを待っている。
ウミネコさん。ねえ、ウミネコさん!
あなたに抱く途方もない切なさが一体何なのか、今日はそれが知りたいんだ。
強い風が吹き、ついに紙は真夏の空へと吸い込まれていった。
『海の図書館 はじめました』
~end~
(本文6214文字)
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